概要
紀元前203年(高帝4年)、張耳が趙王となり、趙国が置かれた[1]。紀元前198年(高帝9年)、代王劉如意が趙王となった[2]。紀元前178年(文帝2年)、劉辟彊が河間王となり、趙国から河間国が分割設置された[3]。前漢の河間国は冀州に属し、楽成・候井・武隧・弓高の4県を管轄した。王莽のとき、朔定郡と改められた[4]。
後漢が建てられると、河間郡と改称された。31年(建武7年)、劉邵が河間王となり、河間国と改められた。37年(建武13年)、河間王劉邵が楽成侯に降格され[5]、河間国は廃止されて、その地は信都郡に編入された。90年(永元2年)、劉開が河間王となると、再び河間国が置かれた[6]。後漢の河間国は楽成・弓高・易・武垣・中水・鄚・高陽・文安・束州・成平・東平舒の11県を管轄した[7]。
晋のとき、河間国は楽城・武垣・鄚・易城・中水・成平の6県を管轄した[8]。
北魏の初年に河間郡は定州に属した。487年(太和11年)、瀛州が定州から分割されて立てられると、河間郡は瀛州に転属した。北魏の河間郡は武垣・楽城・中水・鄚の4県を管轄した[9]。
583年(開皇3年)、隋が郡制を廃すると、河間郡は廃止されて、瀛州に編入された。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、瀛州は河間郡と改称された。河間郡は河間・文安・楽寿・束城・景城・高陽・鄚・博野・清苑・長蘆・平舒・魯城・饒陽の13県を管轄した[10]。
621年(武徳4年)、唐が竇建徳を滅ぼすと、河間郡は瀛州と改められた。742年(天宝元年)、瀛州は河間郡と改称された。758年(乾元元年)、河間郡は瀛州と改称され、河間郡の呼称は姿を消した[11]。
脚注
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