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日本の経済学者 ウィキペディアから
河田 嗣郎(かわた しろう、1883年〈明治16年〉4月22日 - 1942年〈昭和17年〉5月21日)は、日本の経済学者。京都帝国大学経済学部教授を経て、大阪商科大学(現:大阪市立大学)初代学長。
山口県玖珂郡に地主・河田正輔の長男として生まれる。旧制山口中学・旧制山口高校(旧旧山高)を経て京都帝国大学法科大学を卒業、「恩賜の銀時計」を授与される。
卒業後国民新聞に入社するがすぐに京都帝大に戻って講師・助教授となり、欧米への留学後教授に昇進した。京大での経済学部独立に際しては同学部教授となり、社会政策学・農政学などを担当、学部長も務めた。同郷の出身で中学・高校でともに学び、京大法科・経済学部では同僚となった河上肇とは家族ぐるみの親交を結んだ。また米穀統制調査委員・文官高等試験委員など各種政府委員を歴任した。
1928年、關一大阪市長の招聘を受け大阪商科大学の発足に当たり初代学長に就任、さらに大阪市経済研究所長を兼任し、その後死去に至るまでの14年にわたり学長の任にあった。1933年、出身校の京大で滝川事件が発生、処分に反対する法学部教官が京大を辞任すると、河田は辞任組教官の中心と目された末川博・恒藤恭を商大に迎え入れるなど、当時の商大は戦時下にもかかわらず自由主義的な雰囲気が守られていたといわれる。しかしその一方、学生に人気のあった左派教員の立野保男講師に対して免職に追いやるなどの厳しい態度を取ったことで非難された。1942年死去。墓所は京都市左京区の法然院にある。
河田は家族制度研究に始まり、婦人問題、農業経済、食糧問題、経済原論など社会問題全般に及ぶ広範な領域に対し実際的な問題関心を抱き続けたが、主要な研究分野は農業問題研究、家族制度研究に2大別される。また社会政策学会に参加し、「個人人格の尊重」と「その社会生活上及び経済生活上の平等なる独立」を「社会問題の解決」に置く、主流派よりはやや左派的な立場をとった。その分析手法は新古典派経済学に基づくもので必ずしもマルクス主義的ではなかったが、自由主義的な立場では終生一貫していたといわれる。
各種政府委員を歴任する一方で社会的発言を盛んに行い、著書『婦人問題』は1910年9月30日に家族制度を破壊する恐れがあるとして文部省より発禁処分を受けている。また社会主義に対しても柔軟な立場をとり、評論集『何処へ往く』では集権的集産主義を提唱した。晩年の著作『国防経済概論』でも戦時政策に対する「経済の自己規律性」の制約を協調するなど、リベラルな態度を崩さなかった。
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