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河上 清(かわかみ きよし、1873年〈明治6年〉8月2日 - 1949年〈昭和24年〉10月12日)は、米国で活躍した日本人ジャーナリスト。日本におけるキリスト教社会主義の活動家の1人である。山形県出身。筆名は翠陵、陵山[1]。
1873年(明治6年)8月2日、旧米沢藩士宮下忠茂・きみの四男として誕生。宮下雄七と名づけられる。1892年(明治25年)に河上清と改姓改名。
米沢中学校(現山形県立米沢興譲館高等学校)卒業後、上京して篤志家(曽根俊虎、上杉茂憲ら)の援助を受けつつ慶應義塾、東京法学院、青山学院などで学び文筆で身を立てることを志す。
万朝報記者となり社会主義とキリスト教に関心を抱き、足尾銅山鉱毒事件などの追及を行った。1900年(明治33年)社会主義協会結成に参加、1901年(明治34年)社会民主党を他の5名とともに創立。同党が禁止されると、身の危険を感じて渡米[2]。大学で学びながらジャーナリストとしての活動も再開。キヨシ・カール・カワカミ(K.K.カワカミ)の筆名を用いる(ミドルネームの「カール」はカール・マルクスにちなむ[2])。カワカミ,K.カール[3]、K・カール・カワカミ[4]などと表記されることもある。
折りしも日露戦争が始まった事から万朝報の特派員の名目で同地に留まり、その後もフリージャーナリスト、時事新報・毎日新聞社(旧横浜毎日新聞で、現在の毎日新聞とは別会社)の客員特派員としてアメリカでの執筆活動を続け、その間にアメリカ人女性と結婚した。
その後、日本への国際的非難が集中した「対中国二十一か条要求」「満州事変」問題などで日本側の支持に回ったことなどから、米国では「日本の政策の代弁者」と見られるようになった[2]。
太平洋戦争開戦直後、スパイ容疑で逮捕されたが、彼を知るアメリカ人有力者の助力もあって釈放される。太平洋戦争中には「日本は負けなければならない」と連合国支持を明確にする立場に転じた[2]。
さらに戦後は、再び「革新」の側にシンパシィを示すようになる。1949年(昭和24年)には、自署の印税の中から10万円を日本社会党に寄付し、さらに社会党幹部に対して、「非武装中立」政策を提言した。
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