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幕末の旗本。備中井原の領主。井原池田家(池田修理家)10代。従五位下筑後守、贈正五位。江戸幕府 目付、軍艦奉行並 ウィキペディアから
池田 長発(いけだ ながおき、天保8年7月23日〈1837年8月23日〉- 明治12年〈1879年〉9月12日)は、日本の政治家。旗本・備中国井原領主。
幕末、外国奉行に任じられ、使節団一行を率いて渡欧[1]。貿易の抑制政策が進む横浜港の全面的封鎖を談判する目的でまずフランスへ赴いたが[2]、パリ約定の締結により大譲歩を余儀なくされた[1]。他国との交渉も諦めて帰国した池田は、使命を達しなかったとして幕府から譴責を受けた[3]。
備中松山藩初代藩主・池田長幸の三男・池田長信を初代とする井原領主の井原池田家の10代目にあたる。幕末に外国奉行を務め、文久3年(1863年)から元治元年(1864年)にかけて遣欧使節団を率いてフランスを訪問した。その後、開国論を唱えて蟄居処遇となるが、慶応3年(1867年)には軍艦奉行並となった。官位は従五位下、筑後守。没後の大正4年(1915年)に正五位を贈られた[4]。
天保8年(1837年)に幕府直参旗本の池田長休の四男として江戸に生まれ、井原領主・池田長溥の養子となった。少年時代は昌平黌に学び、成績は抜群に優秀だった。長発の領地は1,200石と小さく、最初は小普請組から身を起こしたが、文久2年(1862年)には目付、同3年(1863年)には火付盗賊改・京都町奉行と歴任し、同年9月に対外交渉を行う外国奉行に抜擢された。官位を叙され筑後守を称したのはこの時期である。
当時は攘夷論が強く、この年の3月には孝明天皇が攘夷勅命を発し、さらに下関戦争や薩英戦争等が起きて諸外国との軋轢も高まっていた。長発が外国奉行に就任した直後の10月、攘夷派とみられる浪人3人が横浜近郊でフランス軍士官を殺害する井土ヶ谷事件が起きたが、その犯人は結局見つからなかった。幕府は、事件に対するフランス側の非難と国内の攘夷圧力の両方に押され、事件の解決・謝罪、および横浜鎖港(朝廷や攘夷派を懐柔すべく開港場だった横浜を再度閉鎖する)の交渉に当たらせるため、見識に優れた池田長発および河津祐邦らを欧米諸国へ派遣することとした。
長発は27歳にして、34名からなる遣欧使節団(第二回遣欧使節、または横浜鎖港談判使節団)を正使として率いることとなり、1863年12月にフランス軍の軍艦ル・モンジュ号で日本を出た。上海やインド等を経由し、スエズからは陸路でカイロへ向かい、途中ギザの三大ピラミッドとスフィンクスを見学し写真を撮っている。
元治元年(1864年)3月、マルセイユに入港してパリに着いた一行は皇帝ナポレオン3世に謁見し、フランス政府に事件を謝罪し、195,000フランの扶助金を遺族に支払った。パリのグランドホテルに滞在した一行はフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトにも会っている。
しかし横浜の鎖港に関する交渉は、横浜を対日貿易・交渉の拠点と考えるフランスの抵抗にあい失敗に終わった。また長発自身も西欧の文明の強大さを認識して開国の重要性を感じ、交渉を途中で打ち切り、フランス政府とパリ約定を結んだ。一行は他の国には寄らずそのまま帰路に就き、同年7月に帰国した。この時長発は、物理学、生物学、工業、繊維、農業、醸造等多数の書物や資料をフランスから持ち帰っている。
長発は帰国後、開国の重要性を力説したが、幕府はパリ約定を破棄、長発の石高を半分に減らし蟄居を命ずる等の罰を与えた。長発は隠居して、実兄・池田長顕の五男で養子の池田長春に家督を譲った。慶応3年(1867年)には一転して罪を許され軍艦奉行並となったが、健康を害していたため数カ月で職を辞して井原に戻り、以後政治にはかかわらなかった。井原に学問所を作り青少年を育てることを構想していたが、明治12年(1879年)に没した。
井原陣屋の跡地に建つ井原市立井原小学校には生誕150年を記念して長発の銅像が立てられている。
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