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大阪府和泉市と泉大津市にまたがる弥生時代の遺跡 ウィキペディアから
池上・曽根遺跡(いけがみ・そねいせき)は、大阪府和泉市池上町と同泉大津市曽根町とにまたがる弥生時代中期の環濠集落遺跡。南北1.5km、東西0.6kmの範囲に広がり、総面積60万m2に達する大集落遺跡である。1976年に国の史跡に指定された。1995年から史跡整備が行われている。
池上・曽根遺跡が発見されたのは1900年頃であるが当初は注目を受けなかった。1969年から1971年に大阪万博に備えて国道整備に伴い発掘調査が行われ、この時に遺跡が2万平方メートルを超える当時としては前代未聞の規模であることが判明し、一躍注目を浴びることになる。しかし、その後は唐古・鍵遺跡や吉野ヶ里遺跡に注目が移り、調査はあまり進まなかった。1990年代に至り、史跡公園整備のための再調査が行われ、大型掘立柱建物の発見や年輪年代法による調査結果が発表されると再び注目を浴び、近畿地方の弥生時代研究に欠かすことのできない遺跡となっている[1]。
集落の内郭の中心には棟持柱をもつ大型の掘立柱建物がある。またこれと直行する掘立柱建物も確認されており、これらの建物が井戸を囲んでいる。こうした建物の用途は明らかではないが、祭祀空間あるいは首長の居館など集落の中心的な用途であったと考えられている[2][3]。これらの建物 は同じ場所に3回から4回の切り合い跡があり、弥生時代中期に100年近くに渡って建て替えを繰り返されてきたと考えられる[3]。
環濠は弥生時代中期に繰り返し掘削が行われたが、ある時点で掘削が行われなくなる。その後も掘立柱の建物群が建てられたことが確認されているが、明らかに集落としての規模が小さくなっており、拠点が移動したものと考えられている[4]。その理由は定かではないが、池上・曽根遺跡の背後の丘陵にある観音地山遺跡に拠点が移動したする説があり、共同体が再編成された可能性を指摘されている[4][5]。
出土品として特筆すべきは大量の石包丁が出土している点である。この石は和歌山県の紀の川流域でとれる緑色片岩とされ、製品は1300点、未成品は300点に及ぶ。このようなことから池上・曽根遺跡は石包丁の流通拠点であったと考えられている[6]。また打製石鏃の1300点を始めとして、打製石剣、打製石槍などの石製武器が出土している。これらの石は二上山産のサヌカイトである[6]。そのほかの遺跡での研究も合わせると、近畿地方では石器を中心とした生産・流通システムが存在し、集落ごとに役割を分担していたと考えられている[7]。なお、池上・曾根遺跡では鉄器が出土しておらず、その他の遺跡調査と合わせると弥生時代の近畿地方における鉄器の普及は北部九州と比べると遅れていたと考えられている[8][9]。
また、弥生時代後期のものと思われる、龍を描いた長頸壺が出土している。こうした土器は船橋遺跡や玉津田中遺跡などで確認されているが、井戸などからまとまって出土することから水の祭祀に関係すると考えられている。龍は中国では雨ごいの神と考えられており、こうした由来を知る人物が近畿地方に存在した可能性が指摘されている[4]。
池上曽根史跡公園 | |
敷地面積 | 3.5ha(第1期整備範囲) |
所在地 | 〒594-0083 |
大阪府和泉市池上町213-1 北緯34度30分5.1秒 東経135度25分40.5秒 |
池上曽根弥生情報館
池上曽根弥生学習館 | |
所在地 | 〒595-0004 |
大阪府泉大津市千原町2丁目12-45 北緯34度29分57.1秒 東経135度25分37.7秒 | |
公式サイト | 池上曽根弥生学習館 |
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