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永田 正道(ながた まさみち 宝暦2年(1752年) - 文政2年4月22日(1819年5月15日))は、江戸時代中期から後期の旗本。官位は備後守。通称は千次郎、左兵衛、与左衛門。家禄150俵。妻は永田政行の娘。後妻は豊田友政の娘。婿養子に正邦(鵜殿長称の子)。
菊沢富章の子として生まれ、勘定を務めた姉の夫である永田政行の婿養子となる。
明和6年(1769年)に勘定となり、安永3年(1774年)に養父が没し家督を継承、東海地方や伊勢国の河川改修普請に尽力する。安永7年(1778年)評定所留役の補佐となり、石清水八幡宮の改修普請を監督する。
安永9年(1780年)評定所留役に昇進。天明7年(1787年)に勘定組頭となり、翌年久能山東照宮、宝台院の修復を行う。同年清水徳川家用人に昇進し、のちに布衣を着ることを許され、番頭に転じた。
寛政7年(1795年)に貞章院の用人なり、同9年(1797年)江戸城西ノ丸広敷用人となる。文化7年12月14日に勘定奉行となり、翌年4月20日、江戸北町奉行小田切直年が在任中に没したため、後任として同月25日北町奉行として着任した。
文政2年(1819年)、在任中に没した。
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