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殷 承瓛(いん しょうけん)は清末民初の軍人・政治家。中国同盟会に属した革命派の人物で、後に雲南派の軍人となり、護国戦争(第三革命)では護国軍に参加した。字は叔桓。
廩生(食禄を支給された生員)であった殷承瓛は、1903年(光緒29年)に日本へ留学する。東京振武学校を経て、陸軍士官学校第5期工兵科で学んだ[1]。また、この際に中国同盟会に加入している。帰国後、雲南の新建陸軍第19鎮に加入し、正参謀官、正参議などを歴任した。雲南陸軍講武堂の創設にも関与している[2][3][4]。
1911年(宣統3年)の辛亥革命では、殷承瓛は革命派における主導者の1人として、蔡鍔、唐継尭らとともに謀議に参加した。そして10月30日に、革命派は昆明で蜂起を決行した(昆明重九起義)。蜂起成功後に、蔡を都督とする大漢雲南軍都督府が樹立されると、殷は同政府の参謀部総長に任命された[5][3][2]。
1912年(民国元年)6月、殷承瓛は西征軍総司令官(援蔵司令官)としてチベットに出征し、各地でチベット軍を破った。この際に、四川都督尹昌衡も同じくチベットに出征し、作戦上の齟齬から、雲南軍と四川軍の間で紛争が発生しかけている。しかし同年12月、殷は大過なく軍を昆明に帰還させた[6]。同月29日、北京政府から陸軍少将兼陸軍中将銜を授与され[7]、翌1913年(民国2年)4月12日には陸軍中将に昇進している[8]。
1913年(民国2年)10月、蔡鍔が雲南都督を離任して北京に赴くと、殷承瓛もこれに随従して、北京総統府顧問官に任ぜられた。1915年(民国4年)1月、全国経界局清丈処処長(全国経界局督弁は蔡鍔)となる。殷は東三省や朝鮮に赴き、中国における土地の現状を学んだ。その上で、経界局秘書長周鍾嶽とともに、田地調査のための法規制定や研究に尽力している。その成果として、『経界法規草案』、『中国歴代経界紀要』、『各国経界紀要』の3つの著作をまとめた[9]。
同年、袁世凱が皇帝即位を画策すると、殷承瓛は蔡鍔とともに北京から逃亡し、雲南へ戻る。12月、袁が皇帝に即位すると、蔡は唐継尭らと協力して、袁討伐のための護国戦争(第三革命)を昆明で発動した。殷は蔡が率いる護国第1軍参議に任命され、四川へ出兵した[10]。
護国戦争勝利後の1916年(民国5年)8月13日、殷承瓛は劉鋭恒の後任として川辺鎮守使に任命された[11]。しかし翌1917年(民国6年)、同じ雲南派の軍人である羅佩金が四川で敗北し、雲南へ撤退してしまう。そのため殷も地位を保つことができず、やはり雲南へ引き上げた[3]以後、殷は軍事や政治に関与しようとせず、引退した[12][13]。
殷承瓛の最期については、説が様々に分かれている。『陸良県志』は、引退後に上海へ赴いてチベット密教に傾倒し、1945年(民国34年)に上海で死去としている。しかし『雲南省志 人物志』は、同年に昆明で死去としており[14]、『中国国民党百年人物全書』 は1946年(民国35年)中に死去して同年9月10日に国民政府から追悼・顕彰を受けたとし、さらに『民国人物大辞典 増訂版』は1946年(民国35年)12月1日、昆明で死去としている。
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