武田信政

鎌倉時代前期から中期の武将。甲斐武田氏3代。武田信光の嫡男。伊豆守、安芸守、若狭守。甲斐・安芸守護 ウィキペディアから

武田 信政(たけだ のぶまさ)は、鎌倉時代前期から中期にかけての武将

武田 信政(たけだ のぶまさ)
  1. 鎌倉時代甲斐武田氏当主。本項で解説。
  2. 戦国時代上総武田(真里谷)氏当主については真里谷信政を参照。(1.の末裔に当たる)

概要 凡例武田信政, 時代 ...
 
武田信政
時代 鎌倉時代前期 - 中期
生誕 建久7年1月15日1196年2月15日
死没 文永2年1月6日1265年1月24日[1]
別名 通称:小五郎
官位 甲斐安芸守護
幕府 鎌倉幕府
氏族 甲斐源氏
父母 父:武田信光
母:新田義重の養女(実は源義平の娘)
兄弟 朝信信忠信政一条信長
一宮信隆早川信平馬淵信基
円井光経
信時政綱信村信泰信綱
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甲斐源氏6代当主。武田氏3代当主。甲斐源氏5代当主、武田氏2代当主・武田信光嫡男[2]。生母は新田義重の娘[3]で、一条信長の同母兄[1]。通称は小五郎。

官位は伊豆守。安芸守。若狭守。子に武田信時(五郎次郎、安芸守護信時流武田氏祖)・武田政綱(五郎三郎、石和流武田氏祖)・武田信村武田信泰武田信綱がいる[4](『寛政重修諸家譜』では、駒井信盛下條政長を載せる)[5]

生涯

建久7年(1196年)1月15日、甲府の館にて生まれる[1]幼名は龍光丸[1]・勝千代。元久元年(1204年11月15日、当時の執権北条時政烏帽子親として元服、「政」の偏諱を与えられて信政と名乗った[6]

若い頃、讒言により安芸国に流されたが、やがて許されて復帰した。1221年承久の乱でも幕府方として父と共に活躍した。その後、父が出家したため、家督を継いで当主となった。文永2年(1265年)に死去[1]し、後を嫡子武田信時が継いだ。

建長6年(1254年)成立の『古今著聞集』には信政に関する逸話が記されている。

脚注

参考文献

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