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中華人民共和国の愛国歌 ウィキペディアから
歌唱祖国(かしょうそこく、簡体字: 歌唱祖国; 繁体字: 歌唱祖國; 拼音: Gēchàng Zǔguó<ゴーツァンズゥーグォー>)は、中華人民共和国の愛国歌。1950年の国慶節期間中、王莘により作詞作曲された。
歌唱祖国 | |
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作詞 | 王莘(1950年) |
作曲 | 王莘(1950年) |
発表以来、中国では国家的イベント、外交行事、重要行事の開幕時または閉幕時に使用され、「第二国歌」[1]として認知されている。
1950年9月15日の中華人民共和国国慶節前、北京から天津に帰る列車の中で書き上げた。建国1周年を祝うため天安門広場に集まった人々の雰囲気に感銘を受けたのがその動機である。歌い出し「五星紅旗が風を受け靡く」は、国慶節大会に対する彼の印象を表現している[2]。彼は「歌唱祖国」発表前に様々な関係者に意見を求めた。天津市音楽団にリハーサルを依頼したほか、独自に南開大学、 天津製鉄所、天津市内の繊維工場と天津鉄道機関車庫を訪れ演奏と歌唱方法を教えた。
彼は「歌唱祖国」を天津日報に投稿しようと思い立ち、国慶節当日の掲載を望んでいた。しかし紙面も限られており不掲載の結果に終わった。「大衆歌選」の編集責任者である張恆の目にとまり、その雑誌の第3集に掲載され、初めて「歌唱祖国」は日の目を見た[3]。徐々に華北地区の労働者や学生の間で人気を博するようになった。
1951年9月12日、時の総理周恩来は、「歌唱祖国」が全国で広く歌われるよう、中央政府令の要求事項として指示を出した。同年9月15日、人民日報の目に止まる位置に「歌唱祖国」の歌詞と楽譜が掲載された。同時に「中央人民政府文化部の国慶節唱歌についての通知」を公布した。国慶節時には国歌以外に、「歌唱祖国」と「全世界人民心一條」を遍く歌われる基本の歌曲にすると決めた[4]。
欧米の凱旋式行進曲を模し、中国の民族的音楽の風格を結合させる手段が用いられた。曲調はニ長調で構成され、4の4拍子である。
三番構成である。それぞれ歌詞が同じ共通部分の主歌、それに続く歌詞の異なる副歌から成り立つ。その構造から緻密に、明快簡潔でわかりやすい、また口ずさみやすいものとなっている。[5]
1950年の発表以来、複数の歌詞バージョンがある。1950年王莘による原曲版、1965年の東方紅合唱版、1968年の文化大革命「歌唱社会主義祖国」版、2008年北京オリンピック版などがある。
王莘は詩人艾青の提案により、歌詞内容の一部を変更した。歌い出し「五千年文化はきらびやかに輝く」を「独立と自由は我らの理想」に、2番「私たちはすべての苦難に打ち勝ち、敵を辺疆に追い出した」から「我らはいくつかの困難に打ち勝ち、今日の解放を得た」に変更した[6]。
北京オリンピックの楊沛宜版は、戦争内容の2番と「毛沢東」を含む3番を歌わず、2番目は1番を繰り返し歌う。郭蓉版は2番「侵略すれば我々は彼らの死を叫ぶ」を1番「我らの団結と友愛は鋼の如のように硬い」に変更し、3番は歌わない。
発表後60年間、「歌唱祖国」の歌詞はいくつかの変化を辿った。しかし歌い出し「五星紅旗は風を受け靡く」様子と1番「高い山と平原を越えて、沸き立つ黄河と長江を跨ぐ」描写の部分は変更されたことがない[6]。
20世紀の1950年代から今日まで、中央人民広播電台のラジオ番組「ニュースと新聞の要点」及び「全国ニュース」のオープニング曲として使用されている。また同局のクロージング曲としても使用されている。(毎週火曜日、放送設備点検の停波前に放送。) [7]
「歌唱祖国」の旋律と歌詞は、壮大で勇ましいために、中国の各種重大イベントの儀礼曲、開幕時または閉幕時に使用されていった。いつしか国旗掲揚式や国旗入場曲として使用されるようになり、今では「第二国歌」と認知されている。
中華人民共和国軍楽団が他国の軍楽団と交流する際に、「歌唱祖国」は合同演奏される重要な曲目の一つになった。
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