松浦 久信(まつら ひさのぶ)は、安土桃山時代武将大名伊勢井生城主。豊臣秀吉の鉄砲大将。

概要 凡例松浦秀任 / 久信, 時代 ...
 
松浦秀任 / 久信
時代 安土桃山時代
生誕 生年不詳
死没 慶長5年9月13日1600年10月19日
改名 久信→秀任
別名 茂吉、久信、通称:安兵衛、伊予守
官位 従五位下伊予守
主君 豊臣秀吉秀頼
氏族 和泉松浦氏(寺田氏)
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通称は安兵衛。秀吉の偏諱を受けて秀任(ひでとう)を名乗った。官途は従五位下・伊予守で、松浦伊予守の称でも知られる。

略歴

和泉国の人。和泉松浦氏岸和田城松浦肥前守(光)の家臣の寺田又右衛門(生家)安太夫(松浦宗清)兄弟[1]とは、従弟の関係であるという[2]

寺田兄弟は織田信長に仕えた後に、又右衛門は豊臣秀長に仕え、安太夫(宗清)と安兵衛(秀任)は秀吉に馬廻として仕えた。

文禄元年(1592年)、文禄の役では馬廻詰衆として肥前名護屋城に駐屯した[3][4]。文禄2年(1593年)閏9月12日、『駒井日記』によれば、1,000石加増された[5][4]

文禄3年(1594年)、伏見城普請を分担[4]。『松浦古事記』によれば、同年、大坂城西の丸での演目『皇帝』が演じられた際に、悪鬼役を演じた[6]

慶長3年(1598年)頃、伊勢国井生いうにて1万石を拝領し、合計1万1千石を知行[4]。伊予守に任じられ従五位下に叙される。同年8月、秀吉が没すると、遺物国宗の刀を受領した[4]

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に与し、前哨戦の伏見城の戦い安濃津城の戦いに参加。伊勢から近江路に向かい、立花宗茂らと大津城の戦いに加わって奮戦したが、9月13日、銃弾を受けて戦死した[4][7]。戦後、宗茂はその勇気に感心し、秀任の子を召し出して家臣としたという[2]

脚注

参考文献

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