松本新吉
ピアノ調律師(1865年 - 1941年、日本) ウィキペディアから
人物・来歴
1865年(慶応元年)上総国周淮郡常代村(現・千葉県君津市常代)で生まれる。1887年(明治20年)に横浜へ移住すると、叔父西川虎吉に弟子入りして、西川風琴製造所に勤務するが、数年で解雇される。この解雇は叔父が1894年(明治27年)1月発刊の音楽専門誌『音楽雑誌』の裏表紙広告に逸話として使った[1]。
2年後の1895年(明治28年)には起業して東京新湊町でオルガン製造を始めると、翌1896年(明治29年)に「ピアノ調律師 松本新吉『風琴製造と販売』」の広告を出す[注釈 1]。
1900年(明治33年)に単身で渡米すると、半年ほどニューヨークのブラッドベリー・ピアノ工場で研修生を務める。この工場のマネージャーは松本を「規律正しく、熱心でしかも忍耐強い人物」であると褒め称えている[2]。1902年(明治35年)、「松本ピアノ及オルガン製造所」に社名を改め、ベビーピアノの製造を開始すると、創業翌年の1903年(明治36年)に出品した第5回内国勧業博覧会でベビーピアノが2等賞を受賞する。松本楽器合資会社を1904年(明治37年)に設立し、東京の月島に「松本ピアノ・オルガン製造所」建設(1907年(明治40年))、銀座4丁目に「松本楽器販売店」を設立する。
ところが2年後の1909年(明治42年)に株式を山野政太郎ほかに譲渡すると、1914年(大正3年)には松本楽器合資会社を解散し、同年、京橋柳橋に新たな松本楽器店を設立した。
松本ピアノ製造株式会社を1923年(大正12年)に起こすが、半年後に発生した関東大震災により工場を焼失する。同社は翌年に解散し、工場を個人経営に切り替え長男の松本広が「松本ピアノ」の名義を継承する。新吉は故郷の千葉へ移り住んで隠居する。
1941年(昭和16年)、松本新吉は死去、77歳であった。
2017年には君津市主催コンサートで松本ピアノが演奏された(八重原公民館開館20周年記念)[3]。
松本ピアノ
松本家一族による「松本ピアノ」は3つのブランドがある[4]。
- S. MATSUMOTO:創業者松本新吉によるブランド
- H. MATSUMOTO:長男の松本広によるブランド
- MATSUMOTO & SONS:千葉の工場で六男の松本新治とその家族が引き継いだブランド。
文化資産「松本ピアノ」
参考文献
主な執筆者、編者の順、脚注に使用。
- 清和大学短期大学部 編『清和大学短期大学部紀要』清和大学短期大学部、2019年-2023年。ISSN 1349-1687
- 鈴木 希実「文化資産『松本ピアノ』の保管の現状と考察」48号、2019年、国立国会図書館書誌ID:000004355286-i4554931。
- 鈴木 希実「旧三島小学校の松本ピアノ」49号、2020年、CRID 1520009410058945408、国立国会図書館書誌ID:000004355286-i4555068。
- 鈴木 希実「施設における文化資産『松本ピアノ』の活用と役割」52号、2023年、国立国会図書館書誌ID:000004355286-i31884013。
- 「松本ピアノ」『楽器の事典 ピアノ』東京音楽社、1982年、211頁。ISBN 4-88564036-9。
- 「国産ピアノブランド一覧」『JAPAN PIANO ATLAS』ミュージックトレード社、1992年、370頁。
脚注
関連書籍
関連項目
外部リンク
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.