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李平の子として生まれた。成長すると、博学で文弁をよくし、才俊として当時に認められた。父の以前の爵位の彭城侯を嗣いだ。太尉参軍から、尚書郎を経て、北海王元顥の下で徐州撫軍府司馬をつとめた。次いで入朝して長兼中書侍郎となった。後に崔光に召されて、兼著作郎となった。歴史を記録する職についたものの、記録に意義を見出さなかった。輔国将軍の号を加えられ、相州大中正・光禄大夫の位を受けた。さらに金紫光禄大夫の位を受け、衛将軍の号を加えられた。529年(永安2年)、元顥が洛陽に入ると、李諧は給事黄門侍郎に任じられた。元顥が敗死すると、官爵を剥奪されたため、「述身賦」を作ってその思いを述べた。
534年(天平元年)、母が死去したため、郷里に帰って喪に服した。魏尹として召されたが、服喪期間が終わっていないことを理由に断った。537年(天平4年)、南朝梁が東魏に通好を求めてくると、李諧は兼散騎常侍となり、主使として江南に向かった。梁の主客郎の范胥や梁の武帝と面会して、応答を交わし、才弁を認められた。帰国すると、大司農卿に任じられた。驃騎将軍の号を加えられ、秘書監に転じた。半身麻痺にかかって職務を退いた。
544年(武定2年)、死去した。享年は49、驃騎大将軍・衛尉卿・斉州刺史の位を追贈された。生前の文章は文集にまとめられて刊行され、当時に通行した。
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