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李 経羲(り けいぎ)は清末民初の政治家。清末は総督などの地方官を歴任し、民国時代は極めて短期間ながらも北京政府の国務総理をつとめた。李鴻章の実弟李鶴章の子である。字は仲仙、仲軒。号は悔庵、蛻叟。
1879年(光緒5年)、廩膳生(廩生)から優貢を取得する。さらに朝考で一等を獲得し、知県として任用された。1885年(光緒11年)、海防経費を献納(「報効」)したことにより、道員として優先的に選任されることとなる。2年を経て四川省永寧道で任用された。1893年(光緒19年)、湖南省塩法長宝道に補充任用(「補授」)された。1897年(光緒23年)、按察使に補充任用される。1898年(光緒24年)、福建布政使、1899年(光緒25年)、雲南布政使と歴任した。
1901年(光緒27年)、広西巡撫、雲南巡撫を歴任した。翌光緒28年(1902年)の末に、貴州撫篆并兼貴州提督に就任した。1904年(光緒30年)5月、広西巡撫に異動する。このとき、省内の団練・保甲を整頓し、戸口を調査し、随営速成学堂を創設した。1905年(光緒31年)10月、病のため辞任し、安徽鉄路鉱務総理となった。
1909年(宣統元年)1月、雲貴総督に昇進し、昆明に赴任した。この時、特に雲南省で、鉱山の開発・実業の振興に取り組んだ。また、蔡鍔・唐継尭ら日本留学経験者を多く起用し、雲南陸軍講武堂などを創設して、新軍の創設・強化にも貢献した。このほか、イギリスなどの諸国との領土確定交渉にも当事者として参加し、総督・巡撫を代表して憲政への移行を中央に奏請するなどしている。
以上のように、内政改革等では開明的な姿勢を示していた李経羲であったが、革命の動きには弾圧をもってのぞんだ。しかし、蔡鍔・唐継尭ら新軍軍人は革命派に傾倒していたのである。1911年(宣統3年)10月29日夜、革命派による昆明重九起義が勃発した。李は捕虜とされたが、蔡鍔の指示により釈放され、上海へ逃亡している。
1913年(民国2年)2月、王芝祥・于右任らが北京で国事維持会を組織すると、李経羲はこれに参加した。これ以後、北京政府の政治家として復帰する。
同年7月の二次革命(第二革命)後、李経羲は袁世凱への接近を強める。11月に国会の代替機関として政治会議が設置されると、李はその議長となって、国会解散の提案を行った。1914年(民国3年)1月、約法会議議員資格審定委員会委員長を兼任する。5月に参政院参政、10月審計院院長となった。1915年(民国4年)に袁が皇帝即位を企むと、李は「嵩山四友」の1人(他は徐世昌、趙爾巽、張謇)としてこれを補佐した。しかし、同年12月の護国戦争(第三革命)勃発に際して、袁から護国軍の蔡鍔を説得するよう命じられると、李はこれを拒否し、以後、袁への一切の協力を断った。
1917年(民国6年)春、李経羲は段祺瑞内閣・伍廷芳内閣で財政総長兼塩務署総弁をつとめた。府院の争いで、総統黎元洪により段祺瑞が国務総理から一時罷免されると、李が後任国務総理に指名された。ところが、段を支持する倪嗣沖ら安徽派督軍たち(督軍団)の抵抗により就任を妨害される。6月22日にようやく就任したものの、7月1日の張勲復辟で総辞職に追い込まれた。李経羲内閣は、北京政府における最短の内閣であった。以後、李は天津経由で上海に逃げ込み、政治の舞台から去った。
1925年(民国14年)9月18日、上海で病没。享年69。
清
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中華民国(北京政府)
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