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大韓民国の実業家。サムスングループの創業者 ウィキペディアから
李 秉喆(イ・ビョンチョル、1910年2月12日 - 1987年11月19日)は、韓国の実業家。サムスングループを創業した企業家である。号は湖巌(ホアム、 こがん[1]、호암)である。大韓帝国慶尚南道宜寧郡正谷面出身。本貫は慶州李氏[2]。
家族は代々貯蓄に熱心で、祖母は1食でも節約して1枚でも多くの布地を作るために機織りに専念。
学校には入学せず、地元の私塾で論語などを学び、11歳で親元を離れて日本語学校に通った。それでも学校の成績は最低クラスであった。
早稲田大学入学後は仕送りで遊蕩生活を送り、体調不良により大学は中退。
大学中退後、26歳まで現代で言うニートのような生活を送っていたが、これではいけないと馬山にて友人2人と1万円ずつ出資し設立して協同精米所の事業を始めるも、これも2年で失敗。その後米の投機に成功するが、さらに後の土地の投機には失敗。1938年3月1日に大邱で設立した、リンゴと乾魚類の輸出業を行っていた三星商会が今日のサムスングループの始まりである。
三星商会で秉喆はそれまでと異なり慎重な経営を行い、ある程度事業が拡大したところで日本酒の醸造工場を買収。当時日本酒は太平洋戦争の影響で統制品であったため飛ぶように売れた。1945年に新会社となる三星物産公司を設立。1950年に朝鮮戦争が勃発し、国が労働党の支配下になったため、会社は解散となり労働党から財産を没収されるも、アメリカの助けによって秉喆は労働党から解放され、釜山に移って三星物産株式会社を設立。
1966年に次男の李昌熙がサッカリン密輸事件で一時辞任に追い込まれ、長男の李孟熙がサムスングループ会長職を受け継ぐも、朴正煕政権に情報を垂れ込んだと看做して李孟熙を後継者から経営復帰後に外し[3]、秉喆の死後は三男の李健熙がその地位を受け継いだ。
孫(健熙の長男)の李在鎔はサムスングループ会長、孫(健熙の長女)の李富真はホテル新羅社長、サムスンエバーランド社長、サムスン物産商事部門顧問、孫(健熙の次女)の次女の李敍顕はサムスンエバーランドファッション部門の社長である。
政界とのつながりとして、妻の朴杜乙の甥に9期国会議員・元国会議長の朴浚圭がいる。また、長男の妻は元農林部糧政局長・京畿道知事署理の孫永琦の長女、三男の妻は元法務部長官・内務部長官の洪璡基の長女[5]。
他には日本人女性との間に2人の子供(四男と六女)をもうけた[5]。
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