楊応龍の乱李化龍は生苗からの防御のために播州土兵の戦力が必要であることから取調べには反対した。 1591年(万暦19年)、葉夢熊は権力分離を狙って播州五司を重慶に移管することを提案したが、李化龍は自らの辞任と引き換えに移管案を防いでいる。中央での管轄権をめぐる政争が行われる中、楊応龍
ドンダーの戦い龍の郊外で軍を編成した。阮恵は正月中の昇龍回復を宣言し、正月祝いの準備を行う清軍に対して奇襲を仕掛けると、清軍はドンダーで大敗北を喫した。清の将軍のうち許世亨(中国語版)・尚維昇(中国語版)・張朝龍(中国語版)・李化龍(中国語版)・岑宜棟(中国語版)は戦死し、多くの兵士たちが紅河で溺死した。
万暦の三征播州の役(楊応龍の乱) 貴州播州の土豪で、明から代々播州宣慰使に任じられていた楊応龍が、万暦20年(1592年)の朝鮮援兵に乗じて明への反乱を起こした事件。苗族を味方に取り込んで勢力を拡大した楊応龍は、一時は四川の重慶府に迫った。明の討伐軍にも地勢を利用して頑強に抵抗したが、四川総督の李化龍によって平定された。
明史張瀚・王国光・梁夢龍・楊巍・李戴・趙煥・鄭継之 列伝第一百十四 - 海瑞(何以尚)・丘橓・呂坤・郭正域 列伝第一百十五 - 龐尚鵬・宋儀望・張岳・李材・陸樹徳・蕭廩・賈三近・李頤・朱鴻謨・蕭彦(弟雍・査鐸)・孫維城・謝杰・郭惟賢・万象春・鍾化民・呉達可 列伝第一百十六 - 魏学曾(葉夢熊・梅国楨)・李化龍(江鐸)
呉広 (明)万暦25年(1597年)、副総兵として劉綎に従って朝鮮で日本軍の侵攻を防いだ。水軍を率いて陳璘と協力し、多くの敵兵を捕斬した。万暦28年(1600年)2月、播州の楊応龍の乱に対する討伐軍が総督李化龍の下で八道に分かれて進軍することとなると、呉広は総兵官に抜擢され、一軍をもって合江に進出した。副将の曹希彬が一軍をもって永寧に進出し、