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日本の僧侶 ウィキペディアから
暁烏 敏(あけがらす はや、1877年〈明治10年〉7月12日 - 1954年〈昭和29年〉8月27日)は、真宗大谷派の僧侶・宗教家。院号は「香草院」。法名は「釈彰敏」。愛称は「念仏総長」。
真宗大学在学時から俳句を作り、号は「非無」。高浜虚子に師事し、詩や俳句も多く残した。加賀の藤原鉄乗、高光大船と暁烏敏を合わせて、加賀の三羽烏という[1]。
1877年(明治10年)、石川県石川郡出城村字北安田(現:白山市北安田)の真宗大谷派の明達寺に長男として生まれる[2]。父の暁烏依念(えねん)は説教使として知られた人物であった。母の千代野も、清貧に甘んじた夫に尽くし、敏の教育に熱心な母であった。
1887年(明治20年)、父依念と死別[2]。松任高等小学校を卒業した後、金沢にあった共立尋常中学校(東本願寺と石川県が出資し設立した学校)に進学。
1893年(明治26年)、共立尋常中学校を退学(日本語を世界に広めれば良いとの理由で、英語の試験をボイコットし落第したことが原因)。同年9月、京都の大谷尋常中学校(現:大谷中学校・高等学校)に編入。1896年(明治29年)、真宗大学本科(現:大谷大学)に入学。清沢の宗門革新運動に参加し退学になるも、翌年に復学する。
1897年(明治30年)、20歳で『歎異抄』に出会う[2]。1899年(明治32年)、清沢満之に出会い、佐々木月樵、多田鼎とともに浩々洞を開設する[2]。3人は浩々洞三羽烏と呼ばれた。
1900年(明治33年)、真宗大学を卒業、東本願寺留学生として東京外国語学校(現・東京外国語大学)露語別科に入学し、二葉亭四迷に教わるが中退。
1901年(明治34年)、浩々洞において『精神界』の刊行を発案し、浩々洞の同人らと共に発刊[2][3]。
1902年(明治35年)、佐々木月樵の妹である山田房子と結婚。
1903年(明治36年)1月より、『精神界』の誌上にて「『歎異抄』を読む」という記事を、8年間55回にわたり連載し、世に『歎異抄』の存在を広める(「『歎異抄』を読む」を再編集したのが『歎異抄講話』)[2]。明治時代、『歎異抄』は真宗の禁書であった[4]。同年6月6日、師清沢満之が死去したため[2]、浩々洞代表となる[2]。
1911年(明治44年)、その熱い情熱から異安心(浄土真宗における異端)扱いを受ける。
1913年(大正2年)、房子と死別[2]。1914年(大正3年)、共立尋常中学校校長であった今川覚神と多(金沢常福寺娘)の長女総子と再婚[2]。
1915年(大正4年)、浩々洞代表を辞し、自坊の明達寺に戻る[2]。各地で講演を行い、そのカリスマ性によって多くの信者を獲得する[5][6]。同年、『中外日報』誌上において、複雑な女性関係が問題視され「信界の強盗」と、再三にわたり非難されている。
1924年(大正13年)、母千代野と死別[2]。
1927年(昭和2年)、インド・欧州旅行[2]、ハワイ・アメリカ講演を経て、日本精神を提唱する[2]。
1935年(昭和10年)、眼病を患うも[7]、大報恩会厳修と大日本文教院設立を志願[2]。
1950年(昭和25年)、蔵書を金沢大学に寄贈、「暁烏文庫」と名付けられる[2][8]。
1951年(昭和26年)1月、真宗大谷派の宗務総長に就任し[2]、窮地に追い詰められていた宗派の財政を回復させる。1952年(昭和27年)1月、宗務総長を辞任[2]。自ら喜寿を迎えるに当たって、自坊の明達寺に清沢満之の像と、脇侍として合掌する自身の像を安置した臘扇堂の建立を計画する。1954年(昭和29年)8月20日、臘扇堂が完成[2]、落慶法要を営む。同月27日、死去、満77歳(数え78歳)歿。
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