春日倉老
飛鳥時代から奈良時代にかけての僧・貴族・歌人 ウィキペディアから
春日倉 老(かすがのくら の おゆ)は、飛鳥時代から奈良時代にかけての僧・貴族・歌人。氏は春日蔵・春日椋とも記される。姓は首。官位は従五位下・常陸介。
経歴
春日倉氏(春日倉首)は、春日倉人(職業部の一つで、春日にあった朝廷の倉庫の業務に従事した部民)の首長[1]。春日倉氏の出自は不明だが、春日氏の一族[2]、あるいは、渡来系氏族の蔵氏(蔵史)の一族[3]とする説がある。
当初は出家し僧名は弁基[4]または弁紀[5]と称した。大宝元年(701年)に還俗。春日倉首の氏姓と、老の名を与えられ、追大壱に叙せられた。和銅7年(714年)従五位下に叙爵し、のち常陸介に任ぜられた。卒年は不明だが、享年52とされる[6]。
『万葉集』に弁基として1首[4]、春日倉首老の名で7首[7]の計8首が入集している。弁基としての作品は『新勅撰和歌集』にも採られている。『懐風藻』に五言絶句が1首採録されているほか、『常陸国風土記』の編者の一人ともされる[2]。
官歴
注記のないものは『続日本紀』による。
系譜
『尊卑分脈』による。
- 父:不詳
- 母:不詳
- 生母不明の子女
- 女子:藤原房前室
脚注
参考文献
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