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日本大衆党(にほんたいしゅうとう)は、昭和初期の日本の無産政党。
1928年(昭和3年)12月、日本農民党(平野力三)、日本労農党(三輪寿壮)、無産大衆党(鈴木茂三郎)の他、九州民憲党や中部民衆党など地方無産政党が合併して発足。高野岩三郎を委員長に、平野力三を書記長に選んだ。浅沼稲次郎や加藤勘十も参加。しかし党の主導権を巡る内紛が絶えず、 1929年(昭和4年)5月16日には左派の鈴木と右派の平野ら幹部5人を党の統制を紊乱したとして除名[4]さらに5月21日に10人を除名処分した[5]。同年12月15日の党大会で麻生久を執行委員長とした[6]が、1930年(昭和5年)7月、全国民衆党、無産政党戦線統一全国協議会と合同して全国大衆党となった。
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