方広寺 (浜松市)
静岡県浜松市にある仏教寺院 ウィキペディアから
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方広寺(方廣寺[1]、ほうこうじ)は、静岡県浜松市浜名区にある寺院で臨済宗方広寺派の大本山である。山号は深奥山(じんのうざん)、寺号は詳しくは方広萬寿禅寺と称する。別称、奥山半僧坊。本尊は釈迦如来。
1371年(建徳2年)[2]遠江(静岡県)の豪族井伊家の一族である奥山六郎次郎朝藤是栄居士こと、奥山朝藤の開基である。奥山朝藤は後醍醐天皇の11番目の皇子であった無文元選(1323-1390)に深く帰依していたので、無文元選を開山として創建された寺である。 無文元選は博多聖福寺の後、元に渡って福州大覚寺で古梅正友に参じて嗣法した。その後日本に帰り、三河の広沢庵にいた時に奥山朝藤の招きに応じて方広寺に移った。無文元選はここの景観が中国天台山方広寺を髣髴させたので、寺を「深奥山方広万寿禅寺」と名付けた。
その後何度も火災に遭うなどして、寺勢は衰退していった。度重なる火災により記録が失われ、室町時代末期までの詳しい状況は判然としない。その後1568年(永禄11年)12月、徳川家康が方広寺を訪れその状況を見て、復興に力を注いだ。徳川家康の奏上により、後陽成天皇から「出世職勅許の綸旨」が下された。また1587年(天正15年)には豊臣秀吉から約50石の朱印と境内山林が寄進され、同じ年に勅願所となった。 江戸時代の1786年(天明6年)には、光格天皇から開山の無文元選に対して「大慈普応禅師」の号が下賜された。
明治に入り、政府の廃仏毀釈の宗教政策により境内地以外の寺領が上地となって、方広寺は経済基盤を失うことになった。 1877年(明治10年)、当時の今井東明は鎮守である半僧坊の再建事業など寺存続の立て直しに尽力した。 方広寺は廃仏毀釈後、臨済宗各派が独立した頃には南禅寺派に属していたが、1903年(明治36年)独立して臨済宗方広寺派の本山となった。また同年、明治天皇から無文元選に「聖鑑国師」の号が下賜された。
なお、この寺に祀られる半僧坊権現は開山の無文が中国の元から帰国する際、悪天候の中、無文の乗った船を守護したとされる。後年、無文元選が方広寺に入寺した時、この神がまた現れて、無文元選に対して教えを被り、法を守ることを誓った。それで方広寺の鎮守となったと伝わる。[3]
2019年9月に本堂など24棟の建造物が国の登録有形文化財に登録された[7]。
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