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日本の安土桃山時代~江戸時代前期の武将・大名。豊臣家・徳川家の家臣。常陸麻生藩初代藩主新庄直頼長男で、麻生藩2代藩主。従五位下越前守。奏者番を勤める ウィキペディアから
新庄 直定(しんじょう なおさだ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。常陸麻生藩の第2代藩主。初代藩主新庄直頼の長男。通称は新三郎、官位は従五位下越前守。
永禄5年(1562年)、近江国で新庄直頼の長男として生まれた。母は佐久間盛重の娘。
天正19年(1591年)、直頼は近江大津城に移封されるが、このとき直定に分知され、知行1万2,000石を与えられたという[5]。同年11月、三河吉良狩猟のときに父と共に秀吉に随従した[5]。
文禄元年(1592年)、文禄の役には兵300を率いて朝鮮へ渡海した[6]。帰朝後、伏見城普請を分担[4]。『当代記』によれば、この頃も1万2,000石[4]。
慶長3年(1598年)、秀吉の死に際して遺物景長の刀を受領[4]。この頃、父に連れられて伏見で初めて徳川家康に目通りした[7]。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで父と共に西軍に与して、筒井定次の留守部隊を押しのけ伊賀上野城を占拠した[4]。
急を知らされた筒井定次が帰国し対峙したため、定次の息を人質とする和睦を結んで退去した。(『伊乱記』[要文献特定詳細情報])
西軍の敗戦により戦後に改易となり、父と共に蒲生秀行に預けられ、会津に赴いた[4]。
慶長9年(1604年)正月、父と共に駿府に呼ばれて家康に拝して赦免される。同年4月26日の徳川秀忠の将軍宣下の参内に供奉して上洛する[7]。
慶長18年(1613年)、父の死後に跡を継いで第2代麻生藩主となり、2万7,300石を相続し、3,000石は弟・直房に分知した[7]。
大坂の役に従軍。慶長19年(1614年)の冬の陣では酒井忠世の配下に属し、松平信吉と共に今里の附城を守備した[7]。慶長20年(1615年)の夏の陣でも同じ配下で天王寺・岡山の戦いに参加し、5月7日、大坂城内に突入して首級13を上げた[7]。
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