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朝鮮の娼婦 (1924-1996) ウィキペディアから
文 玉珠(ムン・オクジュ、문옥주)または(ムン・オクチュ)はアジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件(通称:韓国遺族会裁判)における原告の一人。自身が太平洋戦争終結以前に慰安婦であったと述べている。
韓国挺身隊問題対策協議会の調査[1]、および李栄薫が文の手記[2]を検証した結果[3]による。
李栄薫は、憲兵によって満州に連行されたとあるが、文玉珠の故郷の大邱には以前から売春婦の斡旋ネットワークがあり、働き先の満州北部の売春宿[7](「慰安所」の用語の誤用を修正)には、売春婦の20名全員、世話人や経営者が大邱出身者であること、また釜山から就航する際には、この売春婦仲間8人と自らの意思で南方へ出稼ぎに行ったと述べている[3]。
安秉直は、慰安婦として名乗り出た人の中には事実を歪曲している人もいたことを記し、この調査結果での文玉珠についてはそうしたことはなく証言の信頼性が高いことを、以下のように書いている (以下引用)[1]。
このときの調査では、聞き取りをした人たちは40人、証言が掲載されているのは19人、また調査団体の解説(挺対協会長の鄭鎮星)では「大部分が強制連行の範疇に入る」[1]としており、暴力的手段によるもの、詐欺誘拐によるもの、誘拐拉致によるものを合わせ21件中、20件を強制連行と見ていると思われる。。ただし、強制連行という言葉自体に定義上の争いがある。詳しくは強制連行のページ参照。
その後2006年に安は、「強制動員されたという一部の慰安婦経験者の証言はあるが、韓日とも客観的資料は一つもない」「無条件による強制によってそのようなことが起きたとは思えない」と述べ、現在の韓国における私娼窟における慰安婦こそなくすための研究を行うべきであり、共同調査を行った韓国挺身隊問題対策協議会は慰安婦のことを考えるより日本との喧嘩を望んでいるだけであったと非難している[8]。
1992年、慰安婦時代の2年半の間に貯めた郵便貯金2万6145円の返還請求訴訟を行ったが日韓請求権並びに経済協力協定で解決済みとされ敗訴した[9]。それによると、26,245円の貯金から5,000円を朝鮮の実家に送っていたとしている[10]。元慰安婦自身の体験記によれば「千円もあれば故郷の大邱に小さな家が一軒買えた」という[11]。文玉珠はこの貯金について慰安所経営者は給料を支払わなかったが、慰安婦みんなで抗議したら月に数10円程度くれるようになったと述べており、日本兵からのチップなど合わせてこれを貯めてこの郵便預金を作ったと主張した[2]。なお、戦争末期の日本軍占領地におけるインフレ率は激しく、ビルマでは1941年に対し1945年8月は約1856倍になっており[12]、軍票乱発によるインフレが日本国内に波及しないために日本政府は1945年2月に外資金庫を設立して円交換を不可能にしたので事実上、ただの紙切れとなっているとの研究が多数ある[13][14][12][15]。李昇燁は、吉見義明の主張は軍事郵便貯金制度の基本的な理解を欠如、もしくは無視しており、貯金金額はインフレとは無関係と批判している[16]。
文玉珠への関心の多くは彼女が慰安婦となった経緯、特に[強制連行]の被害者であったかどうかにあると思われるが、この点についての主な研究者の分析は次のとおりである。
吉見義明は1940年の連行について、「軍服を着た日本人」は軍人なのか国民服を着た民間人なのか確定できないが、民間人の可能性が高いのではないかと分析している[17]。
慰安婦研究で博士論文を書いた尹明淑はその著書(『日本の軍隊慰安所制度と朝鮮人軍隊慰安婦』)で文玉珠のケースを1回目:1940年は拉致(強制連行)、2回目:1942年を就業詐欺と分類している。
裁判の内容、経緯についてはアジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件(通称:韓国遺族会裁判)を参照されたい。なお文玉珠は最初の地裁判決が出る前に死去している。
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