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敬帝(けいてい)は、南朝梁の第5代および第7代皇帝。姓は蕭、諱は方智(ほうち)。元帝蕭繹の九男。母は貴妃夏氏。皇后は王僉の娘。
太清3年(549年)、興梁侯に封じられた。承聖元年(552年)11月、父の元帝が江陵で即位すると、方智は晋安郡王に封じられた。承聖2年(553年)9月、平南将軍・江州刺史となった。承聖3年(554年)11月、西魏の侵攻を受けて江陵が陥落し、元帝が敗死すると、方智は王僧弁や陳霸先らにより擁立されて梁王・太宰となり、承制した。
承聖4年(555年)2月に江州から建康に入って即位した。同年3月、北斉が南朝梁の皇族である貞陽侯蕭淵明の帰国を支援し、彼を梁の皇帝に擁立することを要求した。7月、王僧弁が北斉の軍事力に屈したため、敬帝は退位して皇太子となった。9月、陳霸先が王僧弁を討ち、蕭淵明を退位させて再び蕭方智を擁立した。以後の敬帝は陳霸先の傀儡であった。任約や徐嗣徽が北斉の支援を受けて抵抗したが、紹泰2年(556年)6月に陳霸先に敗れ去り、会稽で張彪が反乱を起こしたが、周文育らに鎮圧された。太平2年(557年)10月、敬帝は陳霸先に禅譲し、南朝梁は滅亡した。譲位した蕭方智は南朝陳を建てた武帝陳霸先により江陰王に封じられたが、翌永定2年(558年)4月には陳霸先は沛国相県出身の劉師知に蕭方智の殺害を命じた。劉師知は兵を率いて内殿にいた蕭方智を呼び出したものの、一行の目的を悟った蕭方智はこれを拒否して寝台の周囲を逃げ回り、「私には天子になる意思などなかったのに、どうして今殺されなければならないのか」と叫んだが、劉師知は蕭方智の服を掴むと、執行人に命じて斬殺させた[1]。
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