散江村(ちりえむら)は、日本の領有下において樺太に存在した村(指定町村)。
散江という地名は、アイヌ語の「チリワサン」(小刀のように湾曲している海岸)、「チリ・ワ・サム」(水鳥の居る岸)による[2]。
現在はロシア連邦がサハリン州コチコヴォ(ロシア語版)、ウラジミロヴォ(ロシア語版)などとして実効支配している。
昭和17年7月浅瀬集落の様子:浅瀬集落の高橋寫眞館撮影
遠内にあった天第一號(日本側):浅瀬集落の高橋寫眞館撮影
遠内にあった天第一號(ソ連側):浅瀬集落の高橋寫眞館撮影
- 散江
- 円頓(えんとん)
- 軽帆(かるほ)
- 根富(ねとむ)
- 用万(ようまん)
- 北知床岬(きたしれとこみさき)
- 原戸岬(はらとみさき)
- エントモ岬
- 北遠淵(きたとおぶち)
- 南舟越(みなみふなこし)
- 中舟越(なかふなこし)
- 北舟越(きたふなこし)
- 毛主(けぬし)
- 千賀(ちが)
- 内太(ないぶと)
- 能登(のと)
- 可殖(かしょく)
- 東童(とうどう)
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- 此輪(このわ)
- 礼文毛内(れぶんけない)
- 矢向内(やんげない)
- 殻貝(からかい)
- 仁滝(じんたき)
- 珠磨(しゅま)
- 加登屋(かどや)
- 野頃(のころ)
- 西野頃(にしのころ)
- 矢向落(やんげおち)
- 矢向花(やんげはな)
- 遠岸(とおきし)
- 富岸(とんけし)
- 粒軽(つぶかる)
- 陵突(りょうとつ)
- 喰台(くいだい)
- 矢向内沢(やんげないざわ)
- 殻貝沢(からかいざわ)
- 仁滝沢(じんたきざわ)
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- 旧山越村地域
- 山越(やまごえ)
- 志文頃(しぶんころ)
- 茂泊(もとまり)
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- 旧遠内村地域
- 遠内(えんない)
- 浅瀬(あさせ)
- 辰古(たつこ)
- 佐連(されん)
- 上佐連(かみされん)
- 厚内(あつない)
- 鳴子(なるこ)
- 上鳴子(かみなるこ)
- 泊内(とまりない)
- 舟泊(ふなどまり)
- 小泊(こどまり)
- 上小泊(かみこどまり)
- 奥小泊(おくこどまり)
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- 散頃(ちりころ)
- 上散頃(かみちりころ)
- 一ノ川(いちのかわ)
- 平台(たいらだい)
- 二股(ふたまた)
- 大曲(おおまがり)
- 島山(しまやま)
- 上居元江(かみいもとえ)
- 居元江(いもとえ)
- 秘連街(ひれんがい)
- 赤井川(あかいがわ)
- 唐松沢(からまつざわ)
- 二面所二又(にめんじょふたまた)
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- 旧海豹村地域
教育
以下の学校一覧は1945年(昭和20年)4月1日現在のもの[3]。
- 樺太公立多来加国民学校
- 樺太公立浅瀬国民学校
- 樺太公立小泊国民学校
- 樺太公立能登国民学校
- 樺太公立野頃国民学校
- 樺太公立粒軽国民学校
北海道立教育研究所『北海道教育史 地方編2』(1957年)p. 1690