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日本の華族 (1858-1936) ウィキペディアから
戸田 極子(とだ きわこ、1858年1月9日(安政4年11月25日)[1] - 1936年(昭和11年)3月11日[2])は、日本の華族。岩倉具視公爵令嬢。戸田氏共伯爵夫人。
安政4年11月25日(1858年1月9日)、岩倉具視の三女として京に生まれる。母は側室で、後に正妻(継室)となった槇子(まきの方)。具視にとりわけ深く愛されたという母・槇子は美しい女性で、極子も母譲りの美貌に成長した。
明治3年(1870年)12月、美濃国大垣藩知事・戸田氏共と婚約。翌明治4年(1871年)2月、東京で結婚式を挙げた。極子は数えで14歳、氏共は17歳であった。氏共は洋学を志し大学南校に在学していており、結婚直後にアメリカ留学の許可を得た。氏共は同年4月に日本を発ち、以後アメリカの他5か国、5年間に及んで留学した。新妻の極子は実家の岩倉邸に帰り、琴や華道、茶道などの諸芸に励み、また英語やダンスを学んだ。なお、この頃に極子の実兄達もアメリカに留学している。
明治9年(1876年)、夫・氏共が帰国。明治10年(1877年)に長女孝子、明治12年(1879年)に二女米子、明治14年(1881年)に三女幸子と3人の娘をもうけた。極子は評判の美女であったのみならず、早くから教育を受けたため英語とダンスに堪能であり、外国人たちとも物怖じせず交わることが出来る女性であった。このため、明治10年代後半の鹿鳴館時代において、陸奥亮子と共に「鹿鳴館の華」と呼ばれた。
明治20年(1887年)4月22日、首相の伊藤博文が官邸で開催した仮装舞踏会に出席、夫・氏共は太田道灌に、極子は山吹を捧げる賤女に扮した。この後しばらくして、伊藤博文が極子に関係を迫ったとの醜聞が新聞で報道された。
同年10月8日、夫・氏共はオーストリア=ハンガリー全権公使に任命され、一家でオーストリアのウィーンに移った。このウィーン滞在中、作曲家のブラームスとも交流し、ブラームスは極子が直に弾く筝曲を聴いたのではないかといわれている[注釈 1]。明治23年(1890年)に日本に帰国した。
晩年、家を継いだ二女・米子が早世したため、孫を引き取って養育した。
昭和11年(1936年)3月11日、氏共の死から1ヶ月経たないうちに中風のため死去。
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