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琉球王国の室内楽 ウィキペディアから
御座楽(うざがく、おざがく)とは、琉球王国の室内楽である。冊封使歓待を目的として発展した明清系の音楽である。その起源は16世紀頃まで遡るが、琉球王国の滅亡とともに伝承が絶え、幻の音楽となった。
琉球王国では、中国(明や清)から冊封使が来たとき、あるいは徳川将軍に謝恩使や慶賀使を送る「江戸立(江戸上り)」のとき、中国系の音楽を演奏した。このうち、室内で座って合奏する音楽を「御座楽」と呼び、屋外で行列しつつ歩きながら合奏する音楽を「路次楽」(るじがく)と呼んだ。御座楽は荘重で優雅な雅楽であり、路次楽もチャルメラや太鼓などによる荘厳な鼓吹楽(こすいがく)であった。
琉球王国には中国から帰化した人々の子孫が集住する地域があり、彼らは「久米三十六姓」と呼ばれた。久米三十六姓の人々は、琉球国王の命令を受けて、中国本土(主に福建)に渡って留学し、中国語や、音楽などの中国文化を学習した。琉球の御座楽を伝承した楽師も、久米三十六姓の者が多かった。
「江戸立」では、元服前の男児が、楽師から楽曲を仕込まれて、「楽童子」(がくどうじ)として御座楽を演奏した。みな三司官など良家の子弟で、将来を期待されたエリートであった。1653年の江戸立から1850年の江戸立まで、約200年の間に、70曲ぐらい演奏された。最大で6人のアンサンブルで、1回の演奏会で10曲ぐらい弾くことが多かった。器楽曲のほか、「明曲」「清曲」と記される唱曲も演奏された。
江戸時代の琉球王国は、名目的には中国(明、および次の清)に服属したものの、実質的には日本の薩摩藩の支配を受けていた。琉球の使節団の江戸立のとき、薩摩藩は琉球の音楽を演奏させた。薩摩藩は、江戸までの街道ぞいの人々に「路次楽」を聴かせ、将軍以下の江戸幕府の要人たちに「御座楽」の演奏を聴かせることで、自藩の支配力を顕示した。
東アジアの漢字文化圏の諸国では、日本も朝鮮もベトナムも、それぞれ中国伝来の宮廷音楽を「雅楽」としていた。琉球の御座楽もその一つであり、その品格と優美さは、日本本土の雅楽に勝るとも劣らぬものであった。
その後、明治の廃藩置県などがあり、琉球王国は消滅した。明治政府は琉球を「沖縄県」として併合したが、琉球王国の名目的な宗主国だった中国(当時は清)はこれに不満を表明した。このような微妙な国際関係も一因となって、沖縄における中国系音楽の伝統、特に「御座楽」は、明治時代に伝承が絶えた。「御座楽」の最後の上演記録は、1887年、伊藤博文の前で演奏したのが最後である。
御座楽に関する現存資料は少ない。
中国本土には、御座楽で演奏されたのと同じ楽曲が現存しているはずであるが、御座楽のどの曲が中国本土のどの曲にあたるかについては、目下、学者たちが研究中である。
近年の沖縄県では、首里城復元などを機に、琉球王国の宮廷文化を再評価する機運が高まっている。首里城という「ハコ」が先にできたものの、ハコの中身である儀礼や音楽は空っぽであった。また、沖縄独自のアイデンティティーと国際交流の象徴として、「御座楽」を見直す風潮も出てきた。こうした時代の変化を受けて、現在、御座楽を復元する事業が行われている。
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