北伐紅巾党の北伐(1357年~1362年)、元に対する軍事行動。 徐達の北伐(中国語版)(1367年~1369年)、徐達と常遇春の指導する明の軍隊による元に対する軍事行動。この間、トゴン・テムルはモンゴル高原に撤退し、以降、歴史上、北元と称される。 朱元璋の北伐
徐達徐 達(じょ たつ、至順3年(1332年) - 洪武18年2月27日(1385年4月7日))は、明初の将軍。字は天徳。娘の徐皇后は永楽帝の皇后(仁宗洪熙帝、漢王朱高煦、趙王朱高燧の生母)である。朱元璋の旗揚げ時から協力し、元を追って明王朝を立てるのに大きな功を挙げた。
徐達墓徐達は濠州出身。字は天徳。郭子興軍時代から朱元璋に従い各地を転戦し、1367年に始まる北伐では征虜大将軍に任じられて大都を攻め落とし戦功を挙げ、後に右丞相・太子少傅・副将軍とされて軍部の筆頭とされた。しかし、朱元璋に粛清の対象とされ徐達が病に臥せっているときに禁忌とされる鵞鳥を贈られたことで朱元璋に死を望まれ
朱元璋なく、朱元璋の次なる目標は北に数十万の軍勢を要する元軍を追い落とすことになった。 呉元年(1367年)10月、徐達を大将軍・常遇春を副将軍とする25万の軍が北伐(中国語版)へと出発した。北伐軍は破竹の勢いで勝ち進み、同年12月には山東を翌年4月に河南を平定、汴梁を開封府とした。また馮勝(馮国勝が改名
傅友徳百を得た。応天府に帰還し、江淮行省参知政事に進んだ。その際、朱元璋は鼓吹を奏でさせ屋敷まで帰らせた。 至正27年(1367年)10月、徐達に従い、北伐に参加した。徐達に対し「漢の高祖が項羽と戦っている最中、山東で彭越が項羽軍の側背を襲った。今度の戦いは山東の平定から始めるべきだ」と言った。11月、沂