宋 (王朝)商丘市)の帰徳軍節度使であったことによる。通常は、金に華北を奪われ南遷した1127年以前を北宋、以後を南宋と呼び分けている。北宋・南宋もともに、宋・宋朝である。首都は開封、南遷後の実質上の首都は臨安であった。 北宋と南宋とでは華北の失陥という大きな違いがあるが、それでも文化は継続性が強く、その間に明
南宋によって開封から北に連れ去られ(靖康の変)、北宋が滅亡した後、欽宗の弟の趙構(高宗)は南に移って、翌年の建炎元年(1127年)に南京(現在の商丘市)で即位し、宋を再興した。はじめ岳飛・韓世忠・張俊らの活躍によって金に強固に抵抗するが、秦檜が宰相に就任すると主戦論を抑えて金との和平工作を進めた。
杭州市の全盛期を迎え、呉自牧により『夢粱録』に当時の杭州についての記録が残されている。1129年(建炎3年)、行宮が杭州に置かれると杭州府は臨安府と改称、1138年(紹興8年)には正式な遷都が行われ、杭州は宋朝の政治・経済の中心地となった。また都城の防衛のために城壁の拡張工事が行われている。国都となった
劉予永静軍阜城県の農民出身。元符3年(1100年)に進士に及第し、宋朝に官僚として仕えた。靖康元年(1126年)、靖康の変により宋は女真族の金軍によって都の開封を制圧され、滅亡する。劉豫は済南府知府に任命され、済南府を守備したが、建炎2年(1128年)に金軍の侵入に対し、降伏する。
洗衣院「宋主が二帥(粘没喝、斡離不)に面会しようとしたが、拒まれてしまった。そこで(金側の使者である)蕭慶へ恭順の意志を伝え、人や物を貢納することとした。宋朝の臣下たちは口々に抗議したが、(宋の官僚ながら金側につくこととした)呉幵と莫儔とは二帥へ宋主の意を伝え、そこで親王、宰執、宗室の娘各2人、また袞冕や