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張 柔(ちょう じゅう、明昌元年(1190年)- 至元5年6月29日(1268年8月9日))は、モンゴル帝国に仕えた漢人世侯の一人。字は世輝。保定を中心とする大軍閥を築き、真定の史天沢・大同の劉黒馬・東平の厳実とともに漢人世侯の四大軍閥の一人に数えられる[1]。祖父は張湊。父は張辛。
張柔の父祖については事績が全く伝わっておらず、張柔の母に至っては姓名も記録されていないことから、同じ漢人世侯の史氏一族とは異なりありふれた漢人の家系であったとみられている[2]。張柔に迎合する者が「あなたはかの張飛様と本籍も一緒ですし、勇猛である点もそっくりだ。張飛の子孫だと名乗ってはいかがでしょうか?どこからも文句は出ませんよ」と薦めたことがあったが、張柔は「英雄の子孫などと自称するのは天を欺くことだ。自分の先祖は無名の人間だが、無名の先祖だから敬わないことがあろうか」と拒絶している。[3]
1213年(癸酉)よりチンギス・カンの金朝侵攻が始まると、事実上金朝から見放された華北は荒廃し、各地で人望ある指導者を戴いた自衛団(郷兵)が組織されるようになった。張柔もまたその一人であり、張柔率いる一団は西山(太行山脈)の東流に身を寄せ、自営団を組織し、徐々に勢力を拡大していった[4]。一方、金朝の側ではこのような郷兵を対モンゴル戦争に利用すべく、義軍という名目で官職を与えた。その一環で張柔も清州防禦使という地位を与えられ、金の将軍の苗道潤の指揮下に入った。ところが対モンゴル戦争に起用された金の将軍たちは内部対立で足を引っ張りあい、1218年(戊寅)に苗道潤は同じ金の将軍の賈瑀に暗殺されてしまった[5]。
苗道潤の死によってその軍団は張柔と靖安民によって二分されたが、金朝の側ではモンゴルとの戦いを最優先として賈瑀の暴挙を咎めようとせず、賈瑀は使者を張柔らに派遣して自軍に参加するよう呼びかけた。しかし張柔はこのような賈瑀の態度に激怒し、張柔は賈瑀への報復を宣言して兵を集めた[6]。張柔が賈瑀への報復に拘ったのは、賈瑀への報復という大義名分を掲げることにより広く支持を集めるという意図があったと考えられ、実際に何伯祥のように一度は靖安民の下につきながら、張柔の考えに共鳴して馳せ参じる者も現れた[7]。1219年(戊寅)、こうして軍勢を集めた張柔は遂に賈瑀討伐のため出発したが、ちょうど同時期にモンゴル軍もまた南下しており、両軍は狼牙嶺にて遭遇した。この戦いで張柔軍は敗れ、張柔も捕らえられたが、ここで張柔はモンゴル軍に降ることを決意し、助命されただけでなく従来の地位をも保証された。
モンゴルへの投降後も賈瑀討伐を第一目標に掲げる張柔の立場は変わらず、雄州・易州・安州・保州といった賈瑀の勢力圏を平定し遂に孔山で賈瑀を討ち取り、その心臓を取り出して苗道潤に捧げた。賈瑀の勢力をも吸収した張柔軍は更に拡大し、同年末に本拠を満城に移した。その後、張柔は西方の真定を拠点とする武仙と激しく争奪を繰り広げるようになり、1220年(己卯)には中山県などで武仙と激突しこれを破った。武仙から多くの領土を奪ったことで張柔の勢力圏は更に広がり、真定より東の30城余りが張柔の支配下に入った[8]。1225年(乙酉)に真定の武仙が史天倪を殺しモンゴルに反旗を翻すという事件が起こると、史天倪の弟の史天沢は張柔に武仙討伐の協力を依頼し、張柔はこれに応えて喬惟忠らを派遣し武仙討伐に協力した。1226年(丙戌)には国王ボオルとともに山東の李全を投降させ、1227年(丁亥)には本拠地を保州に移した[9]。
1232年(壬辰)、新帝オゴデイを総司令とする金朝侵攻が始まると、張柔はトルイの指揮する右翼軍に加わった。金朝の首都の汴京包囲戦では城の西北に陣を構え、金軍の反撃をことごとく撃退したという。金の皇帝完顔寧甲速が逃れ汴京が陥落すると張柔は真っ先に金朝の史書・図書を保護し北方に護送させた。その後、寧甲速が逃げ込んだ睢陽を包囲し、さらに金朝を挟撃するため同盟を結んでいた南宋の将軍の孟珙とも合流した。追い詰められた金軍は南門を開いて決死の突撃を行ったが、張柔によって撃退され、遂に寧甲速は自殺し金朝は滅亡した(蔡州の戦い)。また、この時状元であった王鶚を助命している。金朝滅亡への多大な功績により、張柔はオゴデイより軍民万戸に任じられた[10]。
1235年(乙未)、オゴデイの三男のクチュを総司令とする南宋侵攻が始まると、先の金朝侵攻で卓越した功績を残した張柔がその補佐を命じられ、漢人部隊の総括としての地位を与えられた[11]。南宋に出兵した張柔軍はまず棗陽を攻略し、次いで徐州・邳州を攻撃した。1237年(丁酉)、曹武に進出した張柔軍は激戦の末南宋軍を打ち破り、光州・黄州を占領した[12]。1240年(庚子)、張柔は改めて南宋の討伐を命じられた。1241年(辛丑)には本拠地の保州が順天府に昇格となり、以後張柔の軍閥は順天張氏の名で知られるようになる[13]。
1251年(辛亥)、新たにモンケが即位すると、改めて軍民万戸に任じられた。1254年(甲寅)には亳州に移り、また孔子廟の建設を支援した。1259年(己未)よりモンケの南宋親征が始まると張柔はクビライの指揮する軍団に従車して功績を挙げた[14]。
中統元年(1260年)、モンケが急死すると弟のクビライとアリクブケとの間で帝位を巡って内戦(モンゴル帝国帝位継承戦争)が勃発したが、張柔はクビライに味方し勝利に大きく貢献した。至元3年(1266年)には大都の造営に携わったが、至元5年6月29日(1268年8月9日)に79歳で亡くなった。子には張弘略・張弘範らがおり、張弘略が跡を継いだ[15]。張柔が築いた「保定張氏」軍閥は漢人世侯の中でも特に有力視されており、南宋からモンゴルに派遣された使者が記した『黒韃事略』では東平の厳実・真定の史天沢・保定の張柔・西京の劉黒馬を並び称して「多くの漢人軍閥があるがこの4名の兵数の多さと強大さに及ぶ者はいない」と評されている[16][17]。
張柔の息子は11人にいたと伝えられているが、『元史』の列伝にはほとんど名前が挙げられていない。しかし、『羅氏雪堂蔵書遺珍』に収録される『経世大典』の抜粋には詳しい記述があり[18]、これによると長男の張福寿は早世し、次男の張弘基は順天宣権万戸・兼勧農官となったがやはり早世し、三男の張弘正が順天宣権万戸の地位を継承したという[19]。
四男の張弘彦と五男の張弘規は郝経に学んだことで知られ、前者は昭勇大将軍・郢州万戸、後者は順天涿州等路新旧軍奧魯総管となった[20]。
張柔 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
張弘基 | 張弘正 | 張弘彦 | 張弘規 | 張弘略 | 張弘範 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
張玠 | 張瑾 | 張琰 | 張珪 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
張景武 | 張景魯 | 張景哲 | 張景元 | 張景丞 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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