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※ 「久保内ふれあいセンター」掲示より
壮瞥町弁景の弁景川と小弁景川の出合付近に泉源があり、附近には地元住民を中心とした会員制の共同浴場があるのみで、源泉付近では外来者の入浴利用はできない[1]。
壮瞥町により多目的に泉源活用されており、2.5km離れた幸内地区の野菜生産団地の温室暖房に利用され[1]、そうべつ温泉病院の暖房や浴場[2]、さらに源泉から約5km離れた久保内地区の日帰り入浴施設の「久保内ふれあいセンター」に引湯され、こちらでは一般入浴可能である[1]。かつては久保内中学校でも利用されていた[1]。
1879年(明治12年)12月、紋鼈村(現・伊達市)の作間林之介が、弁景の弁景川と小弁景川の出合より小弁景川を100m遡った右岸に湧出する温泉を発見。仮湯小屋を建て、翌年「作間温泉」として開業する。開湯当時は、春に当地へ来て、冬は引き揚げる状況だった[3]。一方、「明治時代にアイヌの人から譲り受けて温泉が始まった」とも伝えられている[1]。
1883年(明治16年)になって、当地に作間林之介が定住を始める。作間は、現在の伊達市関内より志門別・壮瞥町立香・南久保内を経て当地までの道路を、当年より3か年かけて私費で開削、浴客の便を図り、本格的に当地での営業を始めた[3]。
戦後、当地の最盛期には3軒の温泉宿があった[1]。1964年(昭和39年)頃には、「弁景ホテル」と「オロフレホテル」の2軒の湯宿があったことが記録に残っている[4]。
近隣にあった幌別鉱山の閉山や、1977年(昭和52年)8月有珠山噴火による来訪客の減少により、翌1978年(昭和53年)12月、最後の湯宿「弁景温泉ホテル」が閉鎖された[5]。
1966年(昭和41年)以降、壮瞥町内において地質・地熱に関する各種調査が行なわれ[6]、その結果をもとに、1979年(昭和54年)から1982年(昭和57年)にかけて3本のボーリングを実施し熱水を得、この成果を1981年(昭和56年)より久保内地区での多目的利用が開始された[7]。
1954年(昭和29年)、弁景地区住民56人が資金や材木・セメントを寄付し浴場を建てた。この団体が現在の会員制共同浴場「弁景温泉共同浴場」の始まりとなる。その後、誰でも入浴できたが、1983年(昭和58年)頃、鏡を盗まれたり荒らされたりしたことから、玄関に南京錠をかけ「会員専用」とされた。2000年(平成12年)には、資金約500万円を集めて改築されている[1]。 この共同浴場の源泉は、かつて近所の湯宿からの「もらい湯」によって浴槽に湯を張ってきた。かつての地元源泉はすべて「自噴」した湯を利用していたが、町営の3本の源泉井戸は地下500~600mからの「動力揚水」したため、自噴源泉の泉温低下・湧出量低下・水量低下した[7]。そのため共同浴場の温泉は、町営源泉からの分湯を利用している[1]。
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