魏晋南北朝時代
隋代
581年(開皇元年)、隋が成立すると、合州は廬州と改称され、3郡3県を管轄した。582年(開皇2年)に霍州の管轄県を統合された。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、廬州は廬江郡と改称され、下部に7県を管轄した[2]。隋代の行政区分に関しては下表を参照。
唐代
620年(武徳3年)、唐により廬江郡は廬州と改められ、合肥・廬江・慎の3県を管轄した。624年(武徳7年)、巣州が廃止され、巣県を廬州の属県として併合した。742年(天宝元年)、廬州は廬江郡と改称された。758年(乾元元年)、廬江郡は廬州の称にもどされた。廬州は淮南道に属し、合肥・慎・巣・廬江・舒城の5県を管轄した[3]。
宋代
元代
1277年(至元14年)、元により廬州は廬州路総管府と改められた。廬州路は河南江北等処行中書省に属し、録事司と直属の合肥・梁・舒城の3県と和州に属する歴陽・含山・烏江の3県と無為州に属する無為・廬江・巣の3県と六安州に属する六安・英山の2県、合わせて1司3州11県を管轄した[5]。1364年、朱元璋により廬州路は廬州府と改められた。
明代以降
明のとき、廬州府は南直隷に属し、直属の合肥・舒城・廬江の3県と無為州に属する巣県と六安州に属する英山・霍山の2県、合わせて2州6県を管轄した[6]。
脚注
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