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日本の競輪選手 ウィキペディアから
平原 康多(ひらはら こうた、1982年6月11日 - )は、日本の競輪選手。日本競輪学校第87期卒業。日本競輪選手会埼玉支部所属。師匠は太田耕二(太田真一の兄)。ホームバンクは西武園競輪場。平原啓多(97期)は弟。
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KEIRINグランプリ2017にて | ||||||||||||||||||||||||
基本情報 | ||||||||||||||||||||||||
本名 |
平原 康多 ひらはら こうた | |||||||||||||||||||||||
生年月日 | 1982年6月11日(42歳) | |||||||||||||||||||||||
身長 | 185cm | |||||||||||||||||||||||
体重 | 99kg | |||||||||||||||||||||||
縁故選手 |
父:平原康広(28期・引退) 弟:平原啓多(97期) | |||||||||||||||||||||||
選手情報 | ||||||||||||||||||||||||
所属 | 日本競輪選手会 埼玉支部 | |||||||||||||||||||||||
期別 | 87期 | |||||||||||||||||||||||
脚質 | 自在 | |||||||||||||||||||||||
アマチュア経歴 | ||||||||||||||||||||||||
1999-2001 | 埼玉県立川越工業高等学校 | |||||||||||||||||||||||
登録地変遷 | ||||||||||||||||||||||||
2002- | 埼玉 | |||||||||||||||||||||||
業績 | ||||||||||||||||||||||||
S級S班 | 2008-2011, 2014-2023 | |||||||||||||||||||||||
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■最終更新日:2024年5月5日 ■テンプレートを表示 |
父・康広は弥彦競輪場に拠点を置く競輪選手(28期)であり、14歳までは競輪場がある弥彦村に隣接した岩室村(現在の新潟市西蒲区)で育った[1][2]。
15歳の時に埼玉県狭山市に転居。父の影響から自転車競技を始め、埼玉県立川越工業高等学校在学時にはジュニア世界選手権に出場している[3]。第87期生として入学した日本競輪学校では、全生徒中最終バック先頭回数が最も多かったことや恵まれた体格もあり、同期の中で最も将来性がある生徒と目されていた。
2002年8月5日、西武園競輪場でデビューし、初出走で初勝利。2004年1月にはS級へ昇進し、同年のヤンググランプリに出場(7着)。翌年のヤンググランプリでは山崎芳仁に続く2着となり、2006年頃からGIやGIIの常連となった。
2006年8月に開催されたふるさとダービー(富山競輪場)では、本命を背負った武田豊樹を相手に逃げ切り優勝。また、同年の全日本選抜競輪決勝では3着に入り、初のGI表彰台を経験した。2008年にはS級S班の初代18名に選出され、獲得賞金4位でKEIRINグランプリに初出場(KEIRINグランプリ08)。井上昌己の2着に入賞する。
2009年、高松宮記念杯決勝では武田豊樹の番手を回り、最終2センターからの番手捲りでGI初優勝を飾る。その後、寬仁親王牌とオールスター決勝では平原・武田・神山雄一郎の並びで挑み、神山の連続2着と武田のオールスター優勝に貢献。同年11月には競輪祭で初優勝[4]。翌2010年の高松宮記念杯では再び武田の番手を回り、連覇を達成した[5]。
2011年[6]と2012年は目立った活躍がなくグランプリ出場を逃すが、2013年の全日本選抜競輪決勝で3年ぶりにGI優勝を果たす。2014年は前年12月に起こったSS11の移籍騒動に加担したとして、同年5月1日から8ヶ月間の競走出場自粛を言い渡されるが、後に自粛期間が3ヶ月に短縮され、8月より競走に復帰した。
その後、競輪祭(2014年、2016年)、全日本選抜競輪(2017年)、寛仁親王牌(2021年)、共同通信社杯(2018年)と多くのタイトルを獲得し、10年連続でS級S班の地位を維持し続けた[注 1][9][7][8]。この間のグランプリでは2021年に2着に入ったほか[10]、2020年(5着)には脇本雄太の後位を回り注目を集めた[11]。
2023年は相次ぐ落車の影響で故障に苦しみ[12][13]、GIの決勝に進めたのはオールスター(7着)のみだった。賞金ランキングでも上位に入れなかったうえに競輪祭も予選敗退したことで、10年連続で続けてきたS班からの降格が決まった[14]。
2024年3月1日、玉野記念2日目第8レース(二次予選)にて勝利し、通算500勝を達成。S級創設(1983年4月)以降女子(4人)も含めて通算54人目の記録で、登録日から21年9か月(デビュー日を含まない)での達成であった[15]。規程により後日、JKAより表彰予定[16]。
同年5月5日には、吉田拓矢の番手から、約10年前のフレームで[12][17]日本選手権競輪を初優勝し、グランドスラムに王手をかけた(残るはオールスター)。この3年ぶりのGI制覇をもって、わずか1年でS班復帰を果たすことにもなった[18]。
なお、平原は山崎芳仁と同様グランドスラムに最も近く、残るGIタイトルは、オールスター競輪だけとなっている。
自力自在の競走を主とする。若手時代は先行主体の自力選手として活躍しており、「徹底先行の平原康多」として紹介されることもあった[19]。トップスピードに達してからの持久力は評価が高く、他の選手を自ら横の動きで捌くことも多かった。平原自身は「徹底先行から自力自在の感じに変えてから1着が増えてきた」と述べている[20]。
2010年代に入り、武田豊樹とのコンビは「(関東)ゴールデンコンビ」と呼ばれ、その時々で前後を入れ替えてタイトルを量産した[21]。後閑信一が東京に移籍した理由の一つとして、平原との関係を一層深めたかったからという見方もある。
人望が厚く、近年は関東地区のまとめ役としての一面を持つ。2020年のスーパープロピストレーサー賞では、関東の中で長らく確執[注 2]があったとされる諸橋愛と木暮安由を和解に導いている[24]。 また、マスコミに対しての受け答えが非常に良いことから、いわゆる「シンパ」の記者が少なくない[注 3]。
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