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日本の京都府京丹後市にある寺院 ウィキペディアから
常立寺(じょうりゅうじ)は、京都府京丹後市峰山町吉原68にある浄土宗の寺院。山号は安泰山。峰山藩の藩主を務めた京極氏の菩提寺である。また、丹後ちりめんの始祖・森田治郎兵衛の菩提寺でもあり、日本遺産「丹後ちりめん回廊」の構成文化財にも数えられる。
常立寺 | |
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所在地 | 京都府京丹後市峰山町吉原68 |
位置 | 北緯35度37分44.0秒 東経135度03分15.3秒 |
山号 | 安泰山 |
宗派 | 浄土宗 |
創建年 | 1555年 |
開基 | 徳及阿闍梨 |
正式名 | 安泰山常立寺 |
別称 | 殿様寺 |
文化財 | 峯山藩主京極家墓所(府指定)、絹本著色釈迦十六善神像(市指定)、絹本著色不動明王像(市指定)、「紙本著色京極家歴代藩主肖像画(市指定) |
法人番号 | 7130005010990 |
1869年(明治2年)『峯山旧記』によると、常立寺はもともとは真言宗の寺院で「玉葉山光明寺」と称した[1]。創健は、後奈良院の1555年(天文24年・弘治元年)で、徳及阿闍梨(とくきゅうあじゃり)が現在の寺地よりも東北にあったが、峯山藩初代藩主の京極高通が入国した際、居館を造営するために寺を今の場所に移転させられ、跡地には武家屋敷が敷かれた。さらに、京極家の菩提所が浄土宗であることから、常立寺は浄土宗に転宗を命じられた[1]。京都知恩院の末寺とされる[1]。
初代京極高通は1665年(寛文5年)に没し法名を安泰院道栄、2代京極高供は1674年(延宝2年)に没し、法名を常立院道栄といった[1]。1676年(延宝4年)、3代京極高明は、この父祖の法名をとって光明寺の山寺号を「安泰山常立寺」と改称した[1]。
藩は、常立寺の境内に峯山藩主の廟所を置き、寺領として安村に10石、外村に御施餓鬼料米1石を与えた[1]。京極氏代々の藩主全員と、その家族の位牌を祀り、江戸時代から「殿様寺」あるいは「奥寺」と呼ばれた[2]。寺には京極家初代藩主京極高通(安泰院)の肖像画が残り[3]、廟所、位牌所、本堂の修繕費用はほぼすべて藩の財政から賄われたという[2]。
1884年(明治17年)3月の京都府寺院明細帳によれば、当時の寺の規模は、寛文11年に再興した本堂、廊下、1740年(元文5年)再興の庫裡、1723年(享保8年)以前に建立し1758年(宝暦8年)に再興した山門、1827年(文政10年)再建の鐘楼堂、土蔵などがあったが[2]、1927年(昭和2年)に北丹後震災で全壊し、現存する本堂は1937年(昭和12年)に再建された[4]。
震災前の境内には、丹後随一の石工として知られる、金刀比羅神社 (京丹後市)境内の狛猫や府下最大の立仏像である平地地蔵も作った鱒留村・長谷川松助の手による子安地蔵があり、高さ8~9尺の大地蔵であったが、明治期に参道側に場所を移し、震災の猛火で壊滅したという[2]。
一説によれば、京極氏の命により現在地に移転する前、菅峠の字(町・村の小区画)光明院寺付近へ移ったとされるが、これは、常立寺境内にあった光明庵の建物を、金毘羅の下に移したことの誤りと思われ、『丹哥府志』の常立寺の項に「昔の建物とて、其境内に光明庵あり、今、金毘羅下に移す…」と明記している[1][5]。その時期については、『峯山旧記』に「光明庵は、もと寺の建物の由なれども、1841年(天保12年)9月、白銀町庵の段に移り、1861年(万延2年・文久元年)大破にて、元の常立寺境内に引き取る…」とあり、引き取られた光明庵は、改造して金剛堂となった[5]。
約3000坪の境内に、1937年(昭和12年)建築の本堂、庫裡のほか、鐘楼や以下の建造物がある[4]。
このほか、京極家4代藩主高之の御手焼の茶器が寺宝として記録に残るが、茶器は破損し失われている[9]。
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