概要
長期間にわたって宮号が直系で継承され、代々親王宣下を受けるなど、世襲親王家の体裁を最初に備えた宮家であると規定される[1]。
歴史
恒明親王は父・亀山法皇の最晩年に生まれた皇子で、母が当時権勢を誇った西園寺家の出であることもあって寵愛を受けた。恒明親王は亀山法皇の遺詔により、後二条天皇の後、大覚寺統を継ぐ儲君と定められ、また、亀山法皇の遺領の大半も譲与された。だが、亀山天皇の嫡男である後宇多上皇は、遺詔を認めれば皇統が分裂してしまうことになると主張して鎌倉幕府に働きかけた結果、亀山法皇の遺詔が実現を見ることはなく、恒明親王が天皇に即位することはなかった。
恒明親王の子孫はその後も続き、亀山法皇から伝領した遺領と御所の常盤井殿にちなんで常盤井宮と称し室町時代後期まで続いた。第4代直明王以外は、親王宣下が確認されている。
南北朝の争いにおいては一部の法親王が南朝に従ったものの、嫡流は京都の北朝側に留まった。常盤井宮家は亀山法皇の遺詔を根拠にして潜在的に皇位継承の可能性を秘めた存在であったが、現実には同家を擁立する政治勢力は存在せず、大覚寺統(南朝)と持明院統(北朝)、あるいは後光厳天皇流と崇光天皇流(伏見宮家)の対立の中でバランサーとしての機能を果たすことになった[2]。
第6代恒直親王の後は子孫が確認されていないが、「常盤井宮雑掌」の活動が永禄年間(1558年〜1570年)まで確認されているため、この頃までは子孫が存在したと考えられる[3]。
また、後奈良天皇には恒直親王の娘が出仕していた他、真宗高田派には常磐井宮出身の真智の活動が確認できる。真智は天正十三年(1585年)に82歳で死去し、その息子の真空も翌年に47歳で死去したことで常磐井宮の血筋は完全に途絶えた。
系譜
脚注
参考文献
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