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『帝国主義下の台湾』(ていこくしゅぎかのたいわん、旧字体:帝󠄁國主義下の臺灣)とは、東京帝国大学経済学部教授で、植民政策の講座を担当していた矢内原忠雄が1927年(昭和2年)3月23日から4月27日にわたり日本統治時代の台湾を視察し、資料収集を分析した結果をもとに1929年(昭和4年)10月10日に岩波書店から刊行した著作である[1]。
1885年(明治28年)4月に締結された下関条約により、台湾は大日本帝国に割譲され、その統治を受けた。
1915年(大正4年)の抗日武装蜂起事件である西来庵事件(タパニー事件)及び第1次世界大戦以降の民族主義高揚により、台湾総督府の統治方針は、内地延長主義のもと同化政策を推進するようになった。こうした中、台湾議会設置運動等、「台湾人」による政治運動が活発に行われたのが、本書執筆当時の時代背景である。
矢内原は、本書の序文で「植民地問題に関する私の心情を披歴せしめれば、私は『虐げらるゝものゝ解放、沈めるものゝ向上、而して自主独立なるものゝ平和的統合』の実現をば衷心仰望するものである。」と述べている[2]。
そのため日本の植民地体制の下で苦難の道を歩み、解放の念を胸に秘めた当時の台湾の人々とりわけ中産・知識階級の人々に、自由の鐘を打ち鳴らす「バイブル」として歓迎された[3]。
本書は台湾の人々に自由の鐘を打ち鳴らす「バイブル」として歓迎されたが、それがため台湾ではたちまち移入販売禁止処分にされた。
同処分の法的根拠は、「台湾出版規則」(明治33年(1900年)2月21日制定の台湾総督府令)[4]である。台湾を適用範囲とする布令であり、同規則第11条第1項「皇室ノ尊厳ヲ冒涜シ 政体ヲ変壊シ 又ハ国憲ヲ紊乱セントスルモノ」と並んで第2項「安寧秩序ヲ妨害シ 又ハ風俗ヲ壊乱スルモノ」を販売頒布禁止とし、また刻板印本を差し押さえできる[4]。さらに同第12条では「本島以外ノ帝国領土又ハ外国ニ於テ出版」した文書図画であっても「前条各項ニ該当スルモノト認メタルトキ」には台湾における販売頒布の禁止と印本の差し押さえができると規定していた[5]。
本書は、安寧の妨害にあたるとされ、1930年(昭和5年)1月9日移入禁止処分にされた。処分の具体的理由が、台湾総督府の出版検閲・規制活動を示す「台湾出版警察報」に残されている[要文献特定詳細情報]。
これによると
とされた。
蔡培火の統治批判の書を肯定的に紹介していること、林本源製糖株式会社の設立過程や台湾の教育事情を批判的に論じていることが、移入販売禁止処分の具体的理由とされた[8]。
本書は、第一篇「帝国主義下の台湾」、第二編「台湾糖業帝国主義」からなり、前者は『国家学会雑誌』第42巻第5号から第9号に、後者は『経済学論集』第7巻第1号に掲載されたものに、それぞれ輔筆したものである[9]。伊能嘉矩の遺稿『台湾文化史』が清統治時代の台湾を扱ったものであるのに対し、本書は「経済を中心として見たる台湾の社会的発展の科学的分析」である[10]。
第一篇は、6つの章、258ページ(原著、1988年の岩波現代文庫版では200ページ)からなる。
以下は個別問題を取り扱う。
第二篇は、4つの章、103ページ(原著、1988年の岩波現代文庫版では80ページ)からなる。
台湾出身の学者である涂照彦教授は、本書の理論的業績として以下の三つをあげる[要出典]。
その一方で、本書においては、台湾の民族資本の形成とその役割が殆ど論じられていないのでないかという批判がある[3]。
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