潼関「潼関」という名称は曹魏の時代から文献に見られる。 北魏の酈道元が著した『水経注』(6世紀)によれば、南流してきた黄河が山に「潼激」するところから「潼関」の名があるという。 『水経注』や『元和郡県志』には、崤山 (zh) から潼津にかけての地域を押しなべて「函谷関」と呼ぶ、と記されている。「潼関」という名称が現れ
函谷関^ 「河水自潼関東北流,水側有長坂,謂之黄巷坂。坂傍絶澗,陟此坂以升潼関,所謂泝黄巷以済潼矣。歴北出東崤,通謂之函谷関也」『水経注』巻四(中文版Wikisource) ^ 「東自崤山,西至潼津,通名函谷」『元和郡県志』巻六。『西征記』よりの引用(中文版Wikisource) ^ a b c d
燕太子丹魏・韓)を脅かし、北に甘泉・谷口が天然の要害となり、南に涇水・渭水に沿った肥沃な大地を有する。肥沃な巴や漢中を独占し、右は隴・蜀の山脈、左は函谷関・崤山に守られている。人口は多く、また兵士も勇猛で、武器防具も満たされている」と評して秦と争うことの愚を献策したものの、丹はそれを聞き入れなかった。
張瓘を除いたというのに、自らも守れないというのかね。どうして秦を恐れようか!」と言い放った。閻負らは「貴州(あなたの国)には山河の固があると言っても、崤(崤山)・函(函谷関)より強固といえますか。物資の豊さで秦・雍より上といえますか。杜洪・張琚は趙氏の威勢をもち、兵は強く財は富み、関中を制圧し、四海を席
弘農郡北魏では、献文帝(拓跋弘)の諱を避けるため、弘農郡は恒農郡と改称された。北魏の恒農郡は陝州に属し、陝中・北陝・崤の3県を管轄した。 東魏の恒農郡は義州に属し、恒農・北陝・崤の3県を管轄した。 北周のとき、弘農郡の称にもどされた。 583年(開皇3年)、隋が郡制を廃すると、弘農郡は廃止されて