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岳陽楼

中国の建築物 ウィキペディアから

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岳陽楼(がくようろう、簡体字中国語: 岳阳楼繁体字中国語: 岳陽樓拼音: Yuèyáng Lóu)は、中国湖南省岳陽市にある楼閣洞庭湖の東北岸に建つ、高さ20.35メートルの[1]三層の[2]木造建築[1]であり、眼下に広大な洞庭湖、北に長江を臨む[1]雄大な景観で知られる[3][4]

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岳陽楼
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元代夏永英語版が描いた岳陽楼

黄鶴楼滕王閣と共に、「江南の三大名楼」のひとつとされる。中華人民共和国国家級風景名勝区(1988年認定)[5]中国の5A級観光地(2011年認定)[6]

歴史

後漢末、赤壁の戦いの後[7]魯粛水軍を訓練する際の閲兵台として築いたものがこの楼の始まりとされる[1][2]

代、岳州刺史として左遷されてきた張説716年開元4年)に[1]魯粛の軍楼を改修して[7]岳州城(岳陽城)の西門とし、南楼と称した[1]。「岳陽楼」の名もこの頃につけられた[7]。張説が才子文人と共にこの楼で詩を賦してからその名が高まり[3]、後に孟浩然李白ら著名な詩人たちもここを訪れて詩を賦し[3]、「天下の楼」とうたわれた[2]。当時の楼は現在のものより小規模で背も低かったと言われる[2]

現在の建物は代の1867年同治6年)[2]あるいは1877年光緒3年)[7]の再建であり、その飛檐(反りの大きな軒)は清代建築に特徴的なものである[2]

文学

孟浩然の『臨洞庭』(洞庭に臨む)、杜甫の『登岳陽樓』(岳陽楼に登る)、范仲淹の『岳陽樓記』(岳陽楼の記)など、岳陽楼とその情景を詠じた詩文は数多い[8]

杜甫

杜甫が最晩年、戦乱で荒廃した長江流域をさすらう中で岳陽を訪れ、768年大暦3年)の暮れに詠んだのが[4]、この極めて精錬度の高い五言律詩[9]『登岳陽樓』(岳陽楼に登る)である。

さらに見る 登岳陽樓 ...

唐詩選』にも収められた[4]この詩に対する賞賛は数多く、かねてより古今の絶唱と称される[3]。例えば宋の唐庚中国語版は『唐子西文録』で「子美の詩は四十字のみ。気象閎放、涵蓄深遠にして、殆ど洞庭と雄を争ふ。いはゆる富めるかな言や、といふ者なり。〔李〕太白〔韓〕退之の輩、率(おおむ)ね大篇を為(つく)るも、終に逮(およ)ばざるなり」と絶賛している[3]

范仲淹

范仲淹の『岳陽樓記』(岳陽楼の記)は、1044年慶暦4年)に中央から岳州太守へ左遷された滕宗諒中国語版が、岳陽楼を修復した際、同年の進士だった范仲淹に作らせた文章である[8]。『古文真宝』に収められ、名文として広く知られる[10]。特に、末尾の一節から「先憂後楽」という語が生まれたことで著名[10]

居廟堂之高、則憂其民。處江湖之遠、則憂其君。是進亦憂、退亦憂。然則何時而樂耶。其必曰先天下之憂而憂、後天下之樂而樂乎。噫、微斯人、吾誰與歸。

…朝廷の高い位にあるときは、おのれの民を憂え、人里離れた所に隠れ住むときは、わが主君のために憂える。進んで仕えていても憂え、退いて民間にいても憂えるのだ。とすればいつになれば楽しむのか。その人は必ず「天下の人の憂えに先立って憂え、天下の人の楽しみに後れて楽しむ」というであろう。ああ、そうした人がいなければ、私はいったい誰に帰依すればよいのか。[8]

范仲淹『岳陽樓記』
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脚注

外部リンク

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