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元第二次世界大戦大日本帝国海軍飛行場、日本 ウィキペディアから
岡崎海軍航空隊(おかざきかいぐんこうくうたい)は、大日本帝国海軍の部隊・教育機関の一つ。太平洋戦争開戦に向けての出師準備の一環として、急増した整備要員の大量養成を図るために設置した。増員が困難になった河和海軍航空隊の分遣隊から発展した「第一岡崎海軍航空隊」、その第一岡崎空の分遣隊から派生した「第二岡崎海軍航空隊」は、もっぱら実際に機体を整備する兵・下士官の養成に振り向けられた。さらにまったく系統が異なる陸上機搭乗員の練成部隊も追加され、「第三岡崎海軍航空隊」と呼称した。
ミッドウェー海戦での大損失を補填すべく、実施部隊の駐留地として、愛知県碧海郡矢作町・上郷村(現岡崎市・豊田市・安城市)の農地を収用し、岡崎飛行場を造成した。しかしガダルカナル島の攻防が始まり、航空要員の急速養成に迫られたため、教育部隊の設置を優先して整備教育航空隊を設置することとなった。第一岡崎航空隊の前身となる河和海軍航空隊岡崎分遣隊は滑走路の南西に兵舎を構えた。
整備訓練の凍結とともに、訓練生は本土決戦要員として陸戦訓練に従事する一方、伊勢湾・三河湾の防衛陣地構築に借り出された。
訓練用教材として各種機材が用いられ、飛行訓練・実戦に使用できる機体は保有していない。
岡崎分遣隊では収容できない生徒の養成を図るため、分派隊とは滑走路をはさんで反対側の北東部に増設され、同様に整備教育を開始した。滑走路が障害となって両隊の交流は乏しく、独立するまでは所在地の上郷村にちなんで「上郷分遣隊」を名乗った。
第一岡崎空と同じく、陸戦要員・陣地構築作業に振り向けられた。
訓練用教材として各種機材が用いられ、飛行訓練・実戦に使用できる機体は保有していない。
昭和17年4月1日に開隊して操縦教育を担ってきた名古屋海軍航空隊の大量増員に対応するため、岡崎に名古屋空の分遣隊を設置することになった。実機を運用するために、滑走路と第二岡崎空の間にあった空き地に割り込んで兵舎が増設されて駐留した。
岡崎空としては特攻作戦に従事していないが、訓練を積んだ練習生たちの多くが沖縄への特攻作戦に従事して戦死者を出している。3基地に進出した特攻隊は、来るべき本土決戦に備えて温存策が図られたものの、相次ぐ空襲の中で機体の喪失が相次いだ。
など多様な練習機各種。
連合軍が駐留し、部隊の解散と機体の処分が実施された。撤退後は引揚者に解放され、開墾の末に農地へ戻った。ただし、収用で追い出された旧来の地主との確執が生じたり、開拓者同士でも、豊田・岡崎・安城のどの自治体に帰属するか衝突が起きたりと、混乱はしばらく続いた。跡地は農地を経て、都市化によって変貌している。戦災を免れた第二岡崎空の兵舎は、新制中学制度発足の際に上郷村立上郷中学校へと転用された。
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