扶州昌郡と改称された。758年(乾元元年)、同昌郡は扶州の称にもどされた。扶州は剣南道に属し、同昌・万全・鉗川・帖夷の4県を管轄した。乾元年間以後に扶州は吐蕃に占領された。848年(大中2年)、山南西道節度使の鄭涯が扶州を奪回した。 ^ 『隋書』地理志上 ^ 『旧唐書』地理志四 ^ 『新唐書』地理志四
湖北省になる。現在の湖北の略称「鄂」はこれに由来する。 唐初、全国は10の道に分けられ、のちに十五道に増設する。湖北省の西部は山南東道、東部は淮南道、東南部は江南西道、西南部は黔中道に属する。のちに、山南東道節度使、荊南節度使、武昌節度使が設けられ、各州を管轄する。
王建 (前蜀)王宗昱(天雄軍節度使) 王宗本(本名は謝従本) 王宗渥(親従都指揮使、本名は鄭渥) 王宗滌(山南西道節度使・同平章事、本名は華洪) 王宗瑤(臨淄王・中書令、本名は姜郅) 王宗佶(中書令、本姓は甘氏) 王宗勉(本名は趙章) 王宗祐(彭州刺史) 王宗謹(本名は王釗) 王宗訓(武泰軍節度使、本名は王茂権)
藩鎮南西道・長安を占拠した朱泚軍も786年に鎮圧する。799年、淮南西道の李希烈を殺害し実権を握った陳仙奇を殺害して淮南西道節度使に就いた呉少誠が乱を起こすが、1年余りの戦いの後に罪を赦され乱を収めた。 徳宗の跡を継いだ順宗は在位半年で死去、憲宗が継ぐ。 即位早々の806年、西川節度使
李茂貞李従昶 - 初名は李継昶 李従照 - 初名は李継照 李継暐 李継崇 - 武泰節度使・隴西郡王。 李継侃(宋侃) - 昭宗の娘の平原公主を娶った。 李継徽 - 本名は楊崇本。静難軍節度使。 李継密 - 本名は王万弘。山南西道節度使。 宝鶏市考古研究所編著『五代李茂貞夫婦墓』(科学出版社、2008年) ISBN