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土佐高知藩5代藩主。山内一俊の長男。従四位下民部大輔、侍従兼土佐守 ウィキペディアから
山内 豊房(やまうち とよふさ)は、土佐藩5代藩主。
寛文12年(1672年)2月2日、山内氏の分家である武蔵国指扇山内家(新橋山内家)の当主・山内一俊の長男として生まれる。新橋山内家は、第2代藩主・山内忠義の弟である山内一唯から始まる家系で、一輝、一俊と続いた。同家は、武蔵国足立郡内3000石を支配する旗本であった。延宝3年(1675年)12月11日、父一俊が早世したので4歳で家督を継ぐ。武芸に優れ、歌や鞠もよくした。
本家の第4代藩主・山内豊昌に嗣子が無かったため、元禄2年(1689年)2月晦日に婿養子となる。それにともない、足立郡の領地は幕府に没収されて、旗本山内家は絶家となる。領民に貸与していた1500両も取り立てることはできず領民は安堵したという。同年3月15日、将軍徳川綱吉に御目見する。同年12月27日、従四位下、民部大輔に叙任する。元禄13年(1700年)11月12日、豊昌の死去により家督を継ぐ。同年12月21日、侍従に任官する。元禄15年(1700年)、池田綱政の娘菊姫と再婚する。
藩政においては風水害、城下の火災などに苦しめられた。このため、領民に対して救済措置をとり、元禄16年(1703年)には藩財政再建を目指して藩札を発行し、分家の山内規重(2代藩主山内忠義の弟重昌の裔)を奉行として登用し、緊縮財政政策を採用した。また、谷秦山を登用して学問を奨励するなどしたが、藩財政再建には失敗した。
宝永元年(1704年)7月2日、一族の山内豊成に蔵米1000俵を支給し、旗本にする。宝永3年(1706年)6月7日に死去、享年35。跡を弟の豊隆が継いだ。
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