小槻貞行

平安時代中期の貴族。正五位下・左大史 ウィキペディアから

小槻 貞行(おつき の さだゆき、正暦5年(994年)頃[1] - 没年不詳)は、平安時代中期の貴族左大史小槻奉親の子。官位正五位下・左大史。

経歴

寛仁元年(1017年)右大史に任ぜられる。同年の後一条天皇賀茂行幸に際して、官文殿内の文書不足から上卿の権大納言藤原実資が十分な回答を出すことができなかった。ここで朝廷の命を受けて、貞行は父でかつての左大史・小槻奉親が自邸に保管していた一条天皇時代の賀茂行幸の文書を提出した[2]。当時、太政官の筆頭官である左大史は藤原道長家司でもある丹波奉親が単独で占めていたが、摂政藤原頼通は「能人」と評するなどその能力を買っていた貞行を左大史に推挙する。これに対して、丹波奉親を擁護する父・道長は強く反対するが、頼通は反対を押し切って寛仁3年(1018年)までに貞行を左大史に昇任させたことから、道長の勘当を受けたという。しかし後年、民部卿源経信内大臣藤原師通に対して頼通の処置への支持を語っており、これが当時の貴族一般の認識であったと想定される[3]。貞行が左大史に任ぜられて以降、左大史2人体制を取ることになり[4]、後の小槻氏による左大史世襲(官務家の成立)への道を開くことになった。

治安2年(1022年)従五位上に叙せられると、翌治安3年(1023年)上﨟の但波奉親が加賀守に転じたことから、貞行が左大史の上首となる。その後、長元2年(1029年惟宗義賢が左大史に任ぜられ、再び左大史2人体制となる。貞行は長元6年(1033年)ごろまで左大史を務める一方で、周防権介主計権助を兼帯し、万寿2年(1025年正五位下に至った。

官歴

系譜

系図纂要』による。

  • 父:小槻奉親
  • 母:不詳
  • 生母不詳の子女
    • 男子:小槻孝信(1017-1086)
    • 男子:小槻良信
    • 男子:小槻保衡

脚注

参考文献

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