Loading AI tools
ウィキペディアから
小栗流(おぐりりゅう)は、小栗仁右衛門正信が開いた日本武術の一流派。
この記事で示されている出典について、該当する記述が具体的にその文献の何ページあるいはどの章節にあるのか、特定が求められています。 |
徳川家旗本であった小栗仁右衛門正信は柳生石舟斎から新陰流剣術を学んでいた。
1615年(慶長20年)の大坂の陣で組討により首級を挙げた経験から、長崎奉行に赴任中に新陰流同門の駿河鷲之助と組討の研究を行った。1616年(元和2年)柳生家から免許を得て小栗流和を開いた。小栗流は柔術ではなく和(やわら)と表記するが、他に甲冑傳や武者取とも称していた。1613年(元和3年)に将軍家の許可を得て広く門弟を招き、1623年(元和9年)には土佐藩主山内忠豊に招かれて小栗流を伝えた。小栗仁右衛門の門人は約3600人いた。
小栗流を土佐に伝えた朝比奈可長は幼くして父を失い土佐藩士の伯父である朝比奈右京亮により養育された。武術修行のために江戸へ上り小栗仁右衛門の高弟で水野流を開いていた水野自適斎に就いて和を学んだ。その後、土佐に帰国して1646年(正保3年)参勤により江戸に出て主命により小栗仁右衛門の門人となった。1649年(慶安2年)小栗流和の伝書を受け、1653年(承応2年)には小栗流和の一子相伝を授かった。以降は土佐藩主山内忠豊に和術師範役として仕えた。
土佐藩に伝えられた後は同地で栄え、土佐藩の柔術は幕末まで小栗流の勢力が大きかった。坂本龍馬も幼少から小栗流を学び免許を受けている。
最初は和(柔術)が表芸であったが、幕末の土佐藩の系統では剣術を表芸としていた。本来は流祖が編み出した組討に剣術ほかを加えた流派と伝えられ、また和の極意を最も重要な秘伝とするなど柔術を流儀の核心とする内容の流派である。創始時には、剣術と和以外に、抜刀術、槍術、眉尖術(薙刀術)、水練、騎射などを含んでいた。
和は組合のみではなく万物の柔弱・剛強・遅速・転変の理を動静に従って教える。他の芸に表裏があるが小栗流和では事という。事の数は五種類に九手ずつで45ある。
例として一部の系譜を以下に示す。 実際にはこの他にも多くの伝系が存在した。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.