小山田弥太郎

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小山田 弥太郎(おやまだ やたろう)は、室町時代後期・戦国時代の武将。甲斐国都留郡国衆[1]。『甲州郡内小山田家系図』に拠れば郡内小山田氏の14代当主。は「信隆」とされるが確証はない[4][1]

概要 凡例小山田 弥太郎, 時代 ...
 
小山田 弥太郎
時代 戦国時代
生誕 不詳[1]
死没 永正5年(1508年)12月5日[1]
別名 仮名:弥太郎
諡号 義山勝公禅定院[2]
氏族 小山田氏
父母 父:小山田信長[1]
中津森御太方[3]
小山田信有(越中守)
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略歴

先代の信長からの代替わりの時期は不明であるが、仮名「弥太郎」を名乗っていることから若年での継承であったと考えられている[2]

甲斐国では守護武田信昌の子である信縄と油川信恵岩手縄美間で抗争があり、明応8年(1499年)には和睦が成立したものの、永正2年(1505年)に信昌が、永正4年(1507年)、信縄が病死すると抗争は再燃[2]。永正5年(1508年)に家督を継承した信縄の嫡男・信直(後の信虎)と叔父・油川信恵・岩手縄美兄弟との間で家督争いが起こると、弥太郎は信恵方に与した[2][1]。これは、弥太郎の叔母が信恵・縄美兄弟の生母であった(『甲州郡内小山田家系図』)ことが背景にあると考えられている[1]

同年10月4日、勝山合戦において信恵方は信直に大敗し、信恵・縄美ともに戦死した[1]。弥太郎はこれに対して国中へ出兵するが、同年12月5日に信直に敗北し、戦死した(『勝山記』)[2][1]。弥太郎の享年は不明であるが、仮名のまま死去していることから、若年であったと考えられている。 弥太郎の戦死により、郡内小山田氏では一門・境小山田氏の小山田平三(弾正)が伊豆国韮山の伊勢宗瑞(北条早雲)のもとへ亡命した[5]

菊隠録』に拠れば、永正17年(1513年)12月5日に広厳院(山梨県笛吹市一宮町金沢)において、子息(越中守信有)とみられる人物により十三回忌仏事が行われている[2][6]

『甲州郡内小山田家系図』では法名を「徹山(てつざん)」とするが、永昌院二世・菊隠瑞潭語録菊隠録』に拠れば法名は「義山」であり、誤りであることが指摘されている[4]。なお、『甲州郡内小山田家系図』では「儀山」を弥太郎の曽祖父・信実としている[7]

脚注

参考文献

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