宮城長五郎
日本の裁判官、検察官、政治家 ウィキペディアから
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宮城 長五郎(みやぎ ちょうごろう、1878年(明治11年)9月5日 - 1942年(昭和17年)6月25日[1])は、明治から昭和にかけての裁判官、検察官、政治家。司法大臣、貴族院議員。旧少年法および矯正院法(少年院法の前身)の成立に尽力した人物として名高い。
埼玉県出身。農業・宮城藤次郎の二男として生まれる。郁文館中学、第一高等学校を経て、1906年(明治39年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。司法官試補となり千葉地方裁判所詰となる。
1908年(明治41年)4月、判事に任官し東京地方裁判所に着任。以後、八王子区裁判所予審判事、東京地裁判事を歴任。1913年(大正2年)5月、東京区裁判所検事に異動し、同年9月、司法省参事官となり法務局に勤務。1918年(大正7年)7月から翌年6月まで欧米各国に出張した。1921年(大正10年)6月、司法省大臣官房保護課長に就任。保護課長として旧少年法および矯正院法の成立に尽力した。
1925年(大正14年)治安維持法の成立にも司法省政府委員として関わった。彼の思想は、犯罪を未然に防ぐという観点から、具体的な犯罪が起こる前、その虞あるものも取り締まるというものであった。そのため、1928年(昭和3年)の三・一五事件、および死刑などを盛り込んだ治安維持法の改正に際しては、「刑罰主義に負けた」として批判した[2]。
1926年(大正15年)3月、大審院検事に移り、東京地裁検事正、長崎控訴院(現福岡高裁)検事長、名古屋控訴院(現名古屋高裁)検事長などを歴任。五・一五事件、血盟団事件、神兵隊事件、帝人事件などを担当。また、起訴猶予者・執行猶予者の保護のための組織である帝国更新会を設立した。
1939年(昭和14年)8月、阿部内閣の司法大臣に就任。1940年(昭和15年)1月16日に同内閣が総辞職をするが、その直前の同月14日、貴族院勅選議員に任じられ[3][4]、無所属倶楽部に属して活動し[1]在任中に死去した[1][5]。享年65。
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