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阿曇 比羅夫(あずみ の ひらふ)は、飛鳥時代の人物。名は比良夫とも書く。氏は阿曇氏(安曇氏)だが阿曇山背(安曇山背)と表記されるもの[1]もある。姓は連。冠位は大錦中。
舒明天皇即位中に百済に使者として派遣されていたが[2]、舒明天皇13年(641年)天皇の崩御に際し、翌642年百済の弔使を伴って帰国し、その接待役を務めている。またこのとき百済の王子翹岐[3]を自分の家に迎えている。篠川賢は、比羅夫はマエツキミであったとした[4]。斉明天皇7年(661年)、高句麗が唐の攻撃を受けると、百済を救援するための軍の将軍となり、百済に渡っている。翌天智天皇元年(662年)、日本へ渡来した百済の王子・豊璋に王位を継がせようと水軍170隻を率いて王子と共に百済に渡った。大錦中に任じられた。
天智天皇2年8月27 - 28日(663年10月4 - 5日)の白村江の戦いで戦死したとされる。長野県安曇野市の穂高神社に安曇連比羅夫命[5]として祀られる。同神社の御船祭りは毎年9月27日に行われるが、これは阿曇比羅夫の命日であるとされる。
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