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孟 昶(もう ちょう)は、十国後蜀の第2代(最後)の皇帝。もとの名は仁賛。高祖孟知祥の五男。後世の史家からは後主と呼ばれている。
若い頃は行軍司馬を務め、明徳元年(934年)に父が皇帝として自立すると東川節度使に任じられた。
高祖の崩御により即位すると、不法をほしいままにしてきた旧臣の李仁罕や張業らを誅殺し、農業養蚕を推奨し、科挙を実施して国内の安定を図った。また諫言に耳を傾けることで政治改革も実行している。
後主はまた文化を愛好し、彼の後宮には花蕊夫人のような、詩才に優れた女性もいた。
しかし晩年は奢侈に溺れて国政を省みず、国内から女性を選抜して後宮を拡張したり、名宝の蒐集に力を注いだりしたので、朝政は大いに乱れた。
広政18年(955年)に西北四州が後周に奪われると、その版図も次第に周辺から侵食されるようになる。広政27年(964年)には宋の侵攻を受けるに至り、広政28年(965年)に宋に降伏したことで後蜀は滅亡した。
亡国後は検校太師兼中書令・秦国公に封じられ、乾徳3年(965年)に開封で死去したが、趙光義(後の太宗)による毒殺説もある。死後は楚王に追封され、恭孝の諡が贈られた。
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