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仏教用語、「あるがままであること」という意味を表す ウィキペディアから
真如(しんにょ、巴, 梵: tathatā、蔵: de bzhin nyid)は、原義では「あるがままであること」「そのような状態」という意味であり、物事の真理・実際のあり方 (the way things are in truth or actuality)[1]、無名で無個性な現実 (nameless and characterless reality)[2]のことである。
『金剛般若経』のサンスクリット本に出て、「真如性」と訳されている。「真」とは真実、「如」とは如常の意味である。諸法の体性虚妄を離れて真実であるから真といい、常住であり不変不改であるから如と言うとされる。
釈迦は自身のことをTathāgata(如来)と呼んでおり、これは「こうして来た人 (One who has thus come)」「こうして去って行った人 (One who has thus gone)」を意味し[1]、また「そのような境地に達した者」とも解釈できる。
『大乗起信論』に、「真生未分の一心」とあり、一真法界には差別がないことを言う。
無明の縁にしたがって九界の妄法を起すのを随縁真如といい、随縁して妄法となるがその真性は不変であるのを不変真如という。よって、随縁真如であるから真如即萬法であり、不変真如であるから萬法即真如である。これは華厳教の終教・天台教の別教以上でいうことである。
真如の究竟して染法を離れることが明鏡のようであるのを空真如といい、真如は一切の清浄法を備えているのが明鏡にすべての様相を写すようなことを不空真如という。これは『釈摩訶衍論』の説である。
これは随縁真如・不変真如の異名である。
衆生が具えている真如を有垢真如といい、諸仏に顕されているものを無垢真如という。『摩訶止観』に説かれている。これは、『大乗起信論』には在纏真如・出纏真如と呼ばれている。
人我の空を顕す真如を生空真如、法我の空を顕す真如を法空真如といい、『唯識論』に説かれる。
真如の体は本来言葉にはできず、心に思うこともできないので、これを離言真如という。言葉を仮設することでその相を表すのを依言真如という。これは『大乗起信論』の説。
これを『華厳大疏鈔』では、相待真如、絶待真如と呼んでいる。
流転・安立・邪行の三真如は仏にはいわない。実相・唯識・清浄の三真如は根本智の境であり、他の四は後得智の境である。
宇宙・万有に遍在する本来たる真如は、固より絶対であって分かつべきではないが、その徳相を顕わし、またはこれを證(証)明する歴程に区別があることより分類することがある。今は菩薩の十地に真如を分證するが、その勝徳により見て假立するものをいう。
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