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太平公主(たいへいこうしゅ)は、唐の高宗の娘。母は武則天(則天武后)。同母兄は中宗・睿宗。公主は皇帝を父に持つ皇女のことを指すが、太平公主の場合、父母ともに皇帝である。清代に成立した『全唐文』の記述から、本名を李令月とする説もあるが、異説もある。
高宗の末娘として生まれた。8歳の時、一度出家して太平の道号を授けられる。母の武則天は、自分と容姿や性格がよく似ていた娘の太平公主を寵愛し、吐蕃から公主の降嫁を願う申し出があった際も、決して許さなかった。
永隆2年(681年)、薛紹(城陽公主の子で従兄弟にあたる)に嫁して二男二女を生んだものの、夫は皇族の李沖(越王李貞の子)の謀叛に連座して捕らえられ獄死した。続いて載初2年(690年)、武照が伯父の武士譲の孫の武攸曁(武懐運(名は弘度)の子)の妻を処刑し、太平公主は武攸曁に再嫁して二男二女を生んだ[1]。
病気がちな高宗に代わって母の武則天が垂簾政治を執り始めると、その相談役として武則天政権の一翼を担う。武則天が皇帝に即位して武周を建てた後、公主も母の側近として隠然たる勢力を持った。武則天が病に倒れたと、その愛人であった張易之・張昌宗兄弟が専横を極めたため、神龍元年(705年)、張兄弟を倒し、兄の中宗を即位させることに成功し、皇族中の重要人物として名を高める。鎮国太平公主の号に尊封された。
その後、宰相の張柬之により武則天は退位し、天下は唐王朝に復するが、張兄弟と組んでいた従兄弟の武三思が張柬之を失脚させ、安楽公主(中宗と韋皇后の娘)と結び、景雲元年(710年)、不倫の暴露を恐れた安楽公主が韋后と組んで中宗を毒殺した。「第二の武則天」となるべく韋后が温王李重茂(殤帝)を擁立して傀儡としたのを危ぶみ、甥の李隆基(後の玄宗)と謀り、韋后・安楽公主とその一族をことごとく誅殺して、李隆基の父の相王李旦(睿宗)を即位させた。ここに皇妹として太平公主の権勢は頂点に達し、万戸の封を与えられ、所生の男子3人もそれぞれ王に封ぜられ、一族も高位高官を占めた。一方、宰相の姚崇・張説を左遷させるなど専権を極めるが、これらのことにより、次第に皇太子の李隆基と対立を深めていくこととなる。
先天元年(712年)、睿宗が皇太子の李隆基に譲位すると、皇帝(玄宗)と公主の対立は激化した。公主は英明な玄宗の廃立を謀るが、陰謀が露顕する。先天2年(713年)7月、皇帝自ら兵300余を率いて公主一派を倒し、公主に死を賜った(終生、禁固を受けた説もある)。以後、玄宗の親政体制が確立し、「開元の治」と呼ばれる唐朝の最盛期につながっていく。
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