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大城戸 三治(おおきど さんじ、1891年(明治24年)4月28日[1][2] - 1962年(昭和37年)3月22日[1][注 1])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
兵庫県出身[1][2][3]。農業・大城戸卯市の三男として生まれる[1]。柏原中学校(現兵庫県立柏原高等学校)卒業を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)を卒業[1][2][3]。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第40連隊付となる[1][3]。1924年(大正13年)11月、陸軍大学校(36期)を優等で卒業[1][2][3]。
1925年(大正14年)1月、歩兵第40連隊中隊長となり、参謀本部付勤務(支那班)、参謀本部員、参謀本部付(支那研究員)を務め、1930年(昭和5年)12月から1931(昭和6年)11月まで陸大で専攻学生として学んだ[1]。その後、陸大教官兼参謀本部員、参謀本部員(支那課)、参謀本部付、陸軍省軍務局課員(軍事課)、歩兵第34連隊付などを務め、1936年(昭和11年)8月、歩兵大佐に進級し第3師団司令部付となる[1][2][3]。参謀本部付(南京駐在)を経て、1937年(昭和12年)8月、北支那方面軍参謀に発令され日中戦争に出征[1][2][3]。1938年(昭和13年)7月、歩兵第76連隊長に転じ張鼓峰事件に出動した[1][2][3]。1939年(昭和14年)3月、陸軍少将に進み歩兵第29旅団長に就任して宜昌作戦などに参戦した[1][2][3]。
1940年(昭和15年)8月、陸軍省人事局功績調査部長に転じ、1941年(昭和16年)11月、陸軍中将に昇進[1][2][3]。1942年(昭和17年)3月、第22師団長に親補され、中国での作戦、警備に従事[1][2][3]。同年11月、北支那方面軍参謀長に転じ、1944年(昭和19年)10月、憲兵司令官に就任した[1][2][3]。1945年(昭和20年)8月、重謹慎20日の処分を受け、同月20日、東部軍付となり、同年11月、予備役に編入された[1][2][3]。1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[4]。
その後、中部軍管区中部憲兵隊が捕虜の米軍搭乗員を処刑した事件によりBC級戦犯容疑で逮捕され、1949年(昭和24年)1月、終身刑の判決を受け、1958年(昭和33年)4月に仮釈放となった[1][5]。
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