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第10代当主大友親世の子として生まれる。生年については確定していないが、元服時に室町幕府第4代将軍足利義持(在職:1394年-1422年)より偏諱(「持」の字)を賜い[3]持直を名乗っていることから、(元服する年齢を考えれば)おおよそ1380年代-1400年代の間のことと思われる。
第11代当主となっていた従兄弟の親著から家督を引継ぎ、当主となった。父・親世の正室の叔父にあたる大内盛見と対立し、少弐氏と連合して合戦しこれを討ち取ったが、盛見が九州における幕府領の管理を務めていたことから6代将軍足利義教(義持の弟)の怒りを買い、持直の守護職は剥奪され一族の大友親綱に与えられ、さらに大内持世による持直追討軍が九州に派遣される事態となり、大友氏は持直方(持直、親著、大友親繁)と幕府方(親綱、大友親隆など)に分裂した。永享7年(1435年)からの姫岳合戦において、持直は伊予国守護河野通久を敗死させるなど強硬に抵抗したが、結局敗北し、以後消息不明となった。没年については諸説ありはっきりしない。なお、子の親常(ちかつね)は詫摩氏(大友親秀の弟・能秀の血統)に養子入りしてその跡を継いでいる。
諱の「持直」の「持」の字は、前述の通り、将軍足利義持から賜ったものである[3]。一方の「直」の字については、大友氏祖・大友能直に由来する大友氏の通字の一つと考えられる。一部では、外祖父にあたる戸次直光から直接1字を受けたとしている[2]。しかし、後者の説の中で更に、直光が「なおみつ」ではなく、「ただみつ」と読ませる説がある。これは、父の頼時と共に一時期南朝方に付いていたことがある直光が、同じく九州で南朝方として活動していた足利直冬(足利尊氏の庶子)・菊池武光の両者から1字をもらってその名を名乗った[4]とし、これに従えば、直冬の「直」(尊氏の弟で直冬の養父の直義の1字に由来)が「ただ」と読むので、直光は「ただみつ」で、その孫である持直は「もちただ」と読むといった内容である[2]。但し、直光も大友能直の子孫であり、祖父の貞直及びその兄弟達も「直」の字を使用している(戸次氏#系譜を参照)ことから、確定できる史料がない限りは「直」が直冬の偏諱とする説を正しいとみなすことは難しい[4]。
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