トップQs
タイムライン
チャット
視点
大セルジューク朝
ウィキペディアから
Remove ads
Remove ads
大セルジューク朝(Seljuk Empire(ペルシア語: آل سلجوق)またはGreat Seljuq Empire[1][注 1])は、オグズのキニク部族から始まる中世盛期のトルコ系ペルシャ人[4]のスンナ派帝国である[5]。最大で大セルジューク朝は東は西アナトリア半島とレバントからヒンドゥークシュ山脈に至り南は中央アジアからペルシア湾に至る広大な地域を支配した。
- 大セルジューク朝
セルジューク帝国 - آل سلجوق
-
↓ 1038年 - 1157年(1194年) ↓ (13世紀初頭にルーム・セルジューク朝とアナトリア半島のベイリクに採用された双頭の鷲)
大セルジューク朝の最大版図(1092年)
大セルジューク朝は1037年にトゥグリル・ベグ(990年 - 1063年)と兄のチャグリー・ベグ(989年 - 1060年)により建国された。アラル海に近い本拠地からセルジューク族は最初ホラーサーンに拡大し、結局バグダードを確保し東アナトリア半島を征服する前にペルシャに拡大した。ここでセルジューク族は1071年のマラズギルトの戦いに勝ち、東ローマ帝国からアナトリア半島の殆どを征服し、第1回十字軍(1095年 - 1099年)の原因の一つになった。1150年から1250年に大セルジューク朝は衰退し、1260年頃にモンゴル族に侵攻された。モンゴル族はアナトリア半島を首長国に分割した。結局その1つのオスマン帝国が残りを征服することになる。
セルジュークは自分の名前を大セルジューク朝とセルジューク朝双方に与えた。セルジューク族は東のイスラム世界の分裂した政治情勢を統一し、第1回十字軍と第2回十字軍で主要な役割を演じた。文化[6]と言語[7]で高度にペルシャ化して[8]、アナトリア半島にペルシャ文化を輸出さえして[9][10]トルコ系ペルシャ人の伝統の発展にも重要な役割を演じた[11]。近隣の諸国の侵攻をかわす戦略的軍事目的で、大セルジューク朝の周辺部の西北地区のトルコ族の移住は、この地域の発展的なトルコ化に導いた[12]。
Remove ads
建国者
→詳細は「セルジューク (軍閥)」を参照
セルジューク族の最初の先祖は、950年にイスラム教に改宗したジャンド近くのホラズムに移住したハザール軍に仕えたと一般に言われるベグ(セルジューク)であった[13]。
拡大
要約
視点
セルジューク族はカラハン朝に対抗してペルシア人のサーマーン朝のシャーと連合した。しかしガズナ朝が興隆するとマー・ワラー・アンナフル(992年-999年)のカラハニドに投降した。セルジューク族は自身の独立の基礎を築く前にこの権力構造に関わることになった。
トゥグリル・ベグとチャグリー・ベグ
→詳細は「トゥグリル・ベグ」を参照
大セルジューク朝をガズナ朝からもぎ取ったトゥグリル・ベグは、セルジュークの孫であり、チャグリー・ベグの弟であった。最初のうちはセルジューク族はマフムードに撃退され、ホラズムに撤退したが、トゥグリル・ベグとチャグリー・ベグは、メルブとニーシャープール奪取に導いた(1037年)[14]。後にホラサンとバルフを通じて後継者と繰り返し襲撃し領土を交換し、1037年にガズニーを略奪さえした[15]。1040年にダンダーナカーンの戦いでセルジューク族へと西の領土の大半を放棄させながら、決定的にマスード1世を破った。1048年から1049年に、トゥグリル・ベグの同母異父の兄弟イブラヒム・イナルが指揮するセルジューク・トルコは、イベリア州の東ローマ帝国の前線地区で最初の侵入を行い、1048年9月10日にカペトロンの戦いで5万人の東ローマ帝国・グルジア連合軍と衝突した。セルジューク族の興隆で残された荒廃は、非常に酷いもので、東ローマ帝国の流力者エウスタティオス・ボイラスは、1051年から1052年にかけてこの土地を「蛇や蠍、野生動物が生息する不潔で手の施しようのない場所」と表現した。アラブの編年史家イブン・アスィールは、イブラヒムは捕虜10万人とらくだ1万頭の背に載せた莫大な略奪品を返却したと報告している[16]。1055年、トゥグリル・ベグはアッバース朝から委託を受けてシーア派のブワイフ朝からバグダードを奪取した。
アルプ・アルスラーン
→詳細は「アルプ・アルスラーン」を参照
チャグリー・ベグの息子のアルプ・アルスラーンは、アナトリア半島のほぼ全域を併合するアルメニアとグルジアを1064年に加え東ローマ帝国に1068年に侵攻することで明確にトゥグリルの領土を拡大させた[17]。1071年のマラズギルトの戦いでのアルスラーンの決定的な勝利は、事実上トルコのアナトリア半島侵攻に対して東ローマ帝国の抵抗を中立化させた[18]。グルジアはイベリア州を防衛することでアルプ・アルスラーンの侵攻から奪還できたが、アナトリア半島から東ローマ帝国が撤退することでグルジアがセルジューク族と更に直接接触することになった。1073年、ガンジャやドヴィン、ドミニシのセルジュークアミールは、成功裏にカルスの要塞を奪取したジョージ2世との戦いでグルジアに侵攻し敗れた[19]。セルジュークアミールアフマドによる報復攻撃は、クヴェリスツィケでグルジアを破った[20]。
忠誠を誓うアタベクとしてアルプ・アルスラーンは嘗ての東ローマ帝国のアナトリア半島からの土地を分割する権限をトルコ人の将軍に与えた。2年以内にトルコ人は数多のベグリク(現在のトルコのベイリク)の下でエーゲ海まで支配を伸ばした(東北アナトリア半島のサルトゥーク朝、東アナトリア半島のシャーアルメンスとメンギュジェク朝、東南アナトリア半島のアルトゥク朝、中央アナトリア半島のダニシュメンド朝、西アナトリア半島の(後に中央アナトリア半島に移動する)ルーム・セルジューク朝(スライマーンのベグリク)、イズミル(スミルナ)のベイリク)。
マリク・シャー
→詳細は「マリク・シャー」を参照
アルプ・アルスラーンの後継者マリク・シャーと2人のペルシャ人ワズィール[21]ニザームルムルクとタージルムルクの下でセルジューク国はアラブ侵攻以前の嘗てのイラン国境に向けて様々な方面に拡張し、その為に間もなく東は中国と西は東ローマ帝国と国境を接した。マリク・シャーは首都をシャフレ・レイからエスファハーンに遷し、大セルジューク朝が絶頂期を迎えたのは、この時代であった[22]。イクタ軍事組織とバグダードのアルニザミッヤ大学がニザームルムルクにより創立され、マリク・シャーの時代は、「大セルジューク朝」の黄金時代と考えられた。アッバース朝カリフは1087年に「東西のスルタン」と名付けた。しかしハサン・サッバーフの暗殺教団(ハシュシャシン)は、この時代に一団となり始め、その指導の下で多くの指導者を暗殺し、多くの出典によると、この犠牲者にニザームルムルクがいた。
1076年、マリク・シャーはグルジアに押し寄せ、多くの入植地を破滅に追い込んだ。1079年から1080年にかけてグルジアは毎年の朝貢という相当な犠牲を払って高価な平和を耐え忍ばせるマリク・シャーに服従するように圧力を受けた。
Remove ads
統治
→詳細は「ディヴァン#セルジューク族」を参照
セルジューク族の勢いは、確かにマリク・シャーの下で絶頂期であり、カラハン朝とガズナ朝は共にセルジューク族の専制君主としての地位を認めなければならなかった[23]。セルジューク族の領土がイランとイラクの古代サーサーン朝の領土を超えて形成され、中央アジアや現代のアフガニスタンの領域同様にアナトリア半島(シリア)を含んだ[23]。セルジューク族の支配は、トルコやモンゴルの遊牧民に共通の部族組織を手本にし、「家族連合」や「アパナージュ国」に似ていた[23]。この組織の下で最高位の家族の指導者が独立したアパナージュとして領土の一部を家族に割り当てた[23]。
分割
→「ルーム・セルジューク朝」および「アタベク」も参照
マリク・シャーが1092年に死去すると、大セルジューク朝は兄弟と4人の息子が大セルジューク朝の配分を巡って不和になり分裂した。マリク・シャーの地位はアナトリア半島ではルーム・セルジューク朝を建国したクルチ・アルスラーン1世が、シリアでは兄弟のトゥトゥシュが継承した。ペルシャでは統治が3人の兄弟イラクのバルキヤールクやバグダードのムハンマド1世、ホラサンのアフマド・サンジャルから異議を申し立てられた息子のマフムード1世が継承した。トゥトゥシュが死ぬと、息子のリドワーンとドゥカークがそれぞれアレッポとダマスカスを相続し、同様に互いに争い、更に互いに反目し合いながらシリアを首長に分配した。
1118年、三男のアフマド・サンジャルが大セルジューク朝を掌握した。彼の甥でありムハンマド1世の息子にあたるマフムード2世はアフマドの王位の主張を承認せず、自らがスルタンであると宣言し、最終的に公式にアフマド・サンジャルに退位させられる1131年までバグダードに首都を構えた。
名目だけのセルジューク領は他に東北シリアと北メソポタミアのアルトゥク朝があり、1098年までエルサレムを支配した。ダニシュメンド朝が東アナトリア半島と北シリアに建国し、ルーム・セルジューク朝と領土を争い、ケルボガはモースルのアタベクとして独立した。
Remove ads
第1回十字軍(1095年-1099年)
→詳細は「第1回十字軍」および「グルジア・セルジューク戦争」を参照
第1回十字軍でセルジューク族の分裂国家は、一般に十字軍戦士に対して協調するよりも自国領を強化し隣国の支配を得ることの方に関心があった。セルジューク族は容易に1096年に到着する民衆十字軍を破ったが、エルサレムに行軍するニカイア(イズニク)やコンヤ、カイセリ、アンティオキア(アンタキヤ)のような重要な都市を奪取する続く王子十字軍の軍勢の前進は止められなかった。1099年、十字軍戦士は遂に聖なる国を奪取し、第一次ウトラメールを建国した。セルジューク族は既に十字軍戦士が獲得する直前に再奪取していたファーティマ朝にパレスチナを奪われていた。
エデッサ伯国を略奪するとセルジュークの司令官イルガジは、十字軍戦士と講和した。1121年、義理の息子のサダカーやギャンジャのスルタンマリクが率いる部隊を含む恐らく25万から35万に上る部隊とグルジアに向けて北上し、グルジア王国に侵攻した[24][25]。ダヴィト4世はイルガジの膨大な軍と戦うモナスパ衛兵5000人やキプチャク兵15000人、アラン兵300人、フランスの十字軍戦士100人などグルジア戦士4万人を召集した。ディドゴリの戦いが1121年8月12日にグルジア王国軍と大セルジューク朝軍の間で行われた。その結果、セルジューク族は数日間グルジア騎兵隊を追跡することで疲弊し、徹底的に打ち破られ戦場から敗走した。ディドゴリの戦いはイルガジ軍の圧力を受けていた十字軍諸国を助けた。ラテン公国の主要な敵が弱体化したことは、ボードゥアン2世王が統治するエルサレム王国にとって有益であった。
Remove ads
第2回十字軍(1147年-1149年)
この間にウトラメールとの騒乱も断続的に行われ、第1回十字軍後に互いに領土を巡って張り合ったので益々独立したアタベクが頻繁に他のアタベクに対してウトラメールと連合することになる。モースルではザンギーがアタベクとしてケルボガの後継者になり、成功裏にシリアのアタベクの統合を開始した。1144年、エデッサ伯国が自分に対してアルトゥク朝と連合したので、ザンギーはエデッサを奪取した。この事件は第2回十字軍開始の契機となった。アレッポのアタベクとして後継したザンギーの息子の一人ヌールッディーンは、1147年に上陸した第2回十字軍と戦う地域で同盟関係を構築した。
衰退
アフマド・サンジャルは東の西遼の遊牧民の侵攻同様にマー・ワラー・アンナフルのカラハン朝やアフガニスタンのゴール朝、現在のキルギスのカルルクによる暴動を封じ込めるために戦った。増大する西遼は、初めホジェンドでセルジューク族の従属国であった、その際西カラハン朝を粉砕することで続いた東カラハン朝を破った。カラハン朝はサンジャルが西遼に対して個人的に軍勢を率いることで応じたセルジューク族を援助のために領主に転属させた。しかしサンジャルの軍勢は、1141年9月9日のカトワーンの戦いで耶律大石の軍勢に決定的に破られた。サンジャルは命からがら逃げられたとはいえ、妻を含む身近な親族の多くは、戦闘の余波で捕虜になった。サンジャルが東からの侵犯する脅威を与えることに失敗した結果、大セルジューク朝はシルダリヤ川までの東の諸県全てを失い、西カラハン朝の家臣は、西遼に強奪された[26]。
ホラズム朝とアイユーブ朝による征服
1153年、オグズは謀反を起こしサンジャルを捕えた。3年後に脱走できたが、1年後に死亡した。ザンギー朝やアルトゥク朝のようなアタベクは、名目上に限って言えばセルジューク朝のスルタンの支配を受けたが、一般的には独立してシリアを支配した。アフマド・サンジャルが1157年に死ぬと、大セルジューク朝は分裂し、事実上アタベクを独立させた。
- ホラーサーンとトランスオクシアナのホラーサーン・セルジューク朝。首都:メルブ
- ケルマーン・セルジューク朝
- ルーム・セルジューク朝(またはトルコのセルジューク族)。首都:イズニク(ニカイア)、後にコンヤ
- イランのサルグル朝のアタベク
- イラクとアゼルバイジャンのイルデニズ朝のアタベク(アゼルバイジャンのアタベク[27])[28]。首都:ナヒチェヴァン[29](1136年-1175年)、ハマダーン(1176年-1186年)、タブリーズ[30](1187年-1225年)
- シリアのブーリー朝のアタベク。首都:ダマスカス
- ジャズィーラ(北メソポタミア)のザンギーのアタベク。首都:モースル
- テュルクマーン・ベグリク:小アジアのダニシュメンド朝、アルトゥク朝、サルトゥーク朝、メンギュジェク家
第2回十字軍の後でヌールッディーンの将軍シール・クーフは、ファーティマ朝のエジプトで名声を確立し、サラーフッディーンにより継承された。結局はサラーフッディーンはヌールッディーンに反旗を翻し、その死に際してサラーフッディーンはその未亡人と結婚し、シリアの殆どを手に入れ、アイユーブ朝を創設した。
別の戦線では、グルジアが地域の強国になり始め、大セルジューク朝を侵食しながら国境を拡大した。同じことはアナトリア半島でレオ2世が統治するキリキア・アルメニア王国の復興期にも起きた。アッバース朝カリフナースィルもカリフの権威を再び主張し始め、ホラズムシャーアラーウッディーン・テキシュと連合した。
短期間トゥグリル3世はアナトリア半島を除く全セルジューク朝のスルタンであった。しかし1194年にトゥグリルはホラズム朝シャーアラーウッディーン・テキシュに破れ大セルジューク朝は遂に崩壊した。嘗ての大セルジューク朝の内アナトリア半島のルーム・セルジューク朝だけが残った。
王朝が13世紀半ばに衰退したので、モンゴル帝国が1260年代にアナトリア半島に侵攻し、ベイリクと呼ばれる小さな首長国に分割した。結局この内の一つのオスマン帝国が強大になり、残りを征服した。
Remove ads
遺産
セルジューク族は奴隷や傭兵としてムスリム宮廷に勤めることで教育を受けた。王朝は信仰復活や精力、アラブ人やペルシャ人に従来統治されていたイスラム文明への再結合をもたらした。
セルジューク族は大学を創立し芸術や文学の保護者でもあった。その影響力はウマル・ハイヤームのようなペルシア人天文学者やペルシア人哲学者ガザーリーにより特徴付けられている。セルジューク族の下でアラビア語文化の中心がバグダードからカイロに移る一方で新ペルシャ語が歴史を記録する言語になった[31]。
スルタン一覧
→詳細は「大セルジューク朝スルタン一覧」を参照
Remove ads
写真
関連項目
- アルトゥク朝
- 暗殺教団
- アタベク
- アナトリア半島のセルジューク家系図
- ダニシュメンド朝
- ガズナ朝
- ラハット・アルスドゥル
- セルジューク建築
- セルジューク朝
- ルーム・セルジューク朝
- トルコ人の歴史
- トルコの王朝と国の一覧
- ルーム・セルジューク朝の時系列
- トルコ人の時系列 (500年-1300年)
- Seldschuken-Fürsten:ドイツ語ウィキペディアのセルジューク支配者の一覧
- トルコ系の移住
注釈
参照
参考文献
外部リンク
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Remove ads